■『独り居の日記』と「書く」ことと自分の魂
月曜日に久しぶりのタンゴの小説を書いて、その夜にタンゴで衝撃があり、翌日はその衝撃のことを考えていてほとんど何も創造的なことができなかった。
その後の二日間は、先週にも書いたメイ・サートンの『独り居の日記』とともに過ごした。今回は胸に響いたところをノートにすべて書き写すということをしてみた。
はじめて読んだのは10数年、もっと前?
軽井沢に住んでいたころだから、アメリカの田舎で暮らすサートンの心情に、同じような田舎で暮らしていた私は共鳴しやすかったのかもしれない。
けれど、それ以上にサートンの創作と生活とのバランスにあがく姿に自分を重ねていた。
今回もまた。
一冊をじっくり読んで、響いた文章と自分のメモを青いノートに書いたのち、私はかくじつに慰められていた。
一日のうちにできる仕事は限られているのだということ。そう毎日、書く意欲にあふれていることなどないのだということ。
そして自分の仕事は、自分自身にだけはごまかしがきかないのだということ。
そして私が魂をこめて書いたものを発見してくれるひとは、きっと、その数は多くはなくても、きっといるということ。
この出版不況、出版できるか否かは、作品の質よりもSNSでのフォロワー数で判断されるという現実。
文学にたずさわるひとは、ますます少なくなってきているという現実。
そんななかにあっても、私、自分にやましさを感じるようなものを書いてはいけない。
生活の不安があるのなら、ほかのところで収入を得ることを考えて、書くことは守りたい。あらゆることから逃げているかもしれないけど、自分の魂には責任をもちたい。
好きな作家がつながっていることの喜びもあった。
イエーツ、ヴァージニア・ウルフ、シモーヌ・ヴェイユ……。
大学でフェミニズムを教えるキャロリン・ハイルブランが訪ねてきて、彼女とどんな会話を交わしたかについて書かれているところも興味深く読んだ。
『女の書く自伝』(1992)を書いたひとで、この本は敬愛する中田耕治先生からいただいたものなのだ。
先生は「きみは読んでおくべきだと思います」とおっしゃった。
中田耕治ともつながっているということになる。
好きな作家がつながっていることがこんなに嬉しいのは、私が歩んでいる道は、そんなに間違っていないと思えるから。
このところ数時間しか眠れない日が続いていた。無理やり薬で眠ろうとするのをやめていたから。でも限界で昨晩は薬の力を借りた。比較的眠れた。いつだって私はアルコール、薬、ぬくもり。何かに頼らずにはいられない。しょぼん。