ブログ「言葉美術館」

■あなたは嫉妬深いですか。

 

 

『嫉妬』というタイトルの本を日曜日の午後に読んだ。

 大好きな女優ジャンヌ・モローについて書かれているものを探していて見つけた本だった。1979年刊行だから40年以上も前のもの。

 当時パリで記者として活躍中のマドレーヌ・シャプサル(1925年生まれ)が「この人に嫉妬について聞きたい」と思った6人の女性にインタビューしている。

「あなたは嫉妬深いですか」。

 まっさきに「この人に聞きたい」と思ったのがジャンヌ・モローだった。当時ジャンヌ・モロー40代の終わり。マドレーヌ・シャプサルはジャンヌ・モローより三つ年下。

 ジャンヌ・モローは多くの男たちとの恋愛で知られている。妖艶で知的で手強い女、というイメージ。2017年に89歳で亡くなってしまったけれど、いまでもフランスでは最高度に「尊敬」されている女優。

 

「けっして美人ではない」と言われ続けた女優。なのにたまらなく魅力的。

 

 

 ジャンヌ・モローと嫉妬ほど遠い言葉はないだろう、と私は思っていた。嫉妬の対象になることはあっても。嫉妬ってよくわからないわ、って、言いそうなひとだから。

 ところが違った。

 ジャンヌは言う。「わたしにとって嫉妬とは、恋愛における常軌を逸した苦しみのひとつね」。

 そして次の箇所で私はひどく考えこんでしまった。

 ひとは「わたしは嫉妬なんて知らないわ!」と言って、嫉妬していないふりをするけれど、それは「わたしは愛している。でも嫉妬せずにいられないほど愛の罠にはまっているわけではない」ということよ。いわばドアを開けておくわけ。

 だれかと恋に落ちたら、ひとは家にはいってドアを閉めるのよ。「わたしは心の底では嫉妬なんかしていない」って言うのは、ドアを開けておくこと。苦しくなりそうなとき、逃げだせるように。

 

 これって、まるまる私のことだ。

 私も、恋愛において嫉妬とはなるべく遠くに身を置いていたい。そしてそれには、わりと成功してきたように思う。けれどその成功の理由が「ドアを開けておく」ことだとしたら、それって、なんだか嫌だな。潔くないし、あんまり美しくない行為じゃない? 

 しかも生きている年数が増えるにつれ、同じ「ドアを開けておく」にしても、ドアの角度がどんどん広くなっていない? ますます、嫌だ。

 でも、苦しいのも、もう嫌、これも強くあるからなあ。

 さて。次。

 この箇所も響いた。

 みんなが言うのは「肉体関係の嫉妬なんてわたしにはどうでもいいことだ。恋人がだれかほかのひとと寝たとしても、うれしいとまでは言わないが、別に大したことでもない。わたしにとって何よりも大切なのは、精神的合致なのだ。もしわたしが愛している男(あるいは女)が、わたし以外の誰かと話すこと、心を通じ合うことに楽しみを見出していると知ったら、わたしはとても耐えられない!」

 

 でも、そんなことを言いながら、実際に、愛するひとがほかのひとと性的関係をもった、と知ったとき冷静でいられるかといえば、違う。

 

 言うのは簡単よ。でも追いつめられたとき、自分自身の反応に最初にびっくりするのが自分だってことがよくあるわ。わたしが嫉妬についてもっと真実に近いことを言えるとしたら、それは、嫉妬がいつ正体をあらわすかけっしてわからないということ。

 

 そして「いまや大人であるあなたにとって、男性との関係において何が嫉妬に火をつけるの? ひとからなにか聞かされるとか、なにかを目撃するとか、それとも自分から考えだすのかしら?」という問いについては次のように答える。

 

 むしろ自分のなかから生まれるものね。つまり想像力の手綱をゆるめると、遠からず苦しみがやってくるの。ところが現実が明らかになってその現実に直面するときは、それほど苦しまない。たぶんその場合は、ある種の男たちの下品さや失礼な面に打撃を受けるからでしょうね。

 

 これには大きくうなずいた。嫉妬は自分のなかから生まれるもの。想像力の産物。でも、現実的に何かがわかったときには、ある特定の人への失望があまりに大きくて、嫉妬ではない感情、感覚に支配されるから、嫉妬は薄まる、みたいなかんじ。

 

 嫉妬は悪性の熱みたい。自分をほろぼし、他人との関係をほろぼしてしまう。それだけじゃない。嫉妬は最悪の戦術よ。嫉妬している人間は愛されたいと願う。もちろん好かれるわけがない。結局、自分自身を憎むようになってしまう。そうなったら破滅よ! 嫉妬しないように努力しましょうね!

 

 はい。

 でも、ジャンヌ・モローさま。きっとあなたもそうだったのでしょうけれど、破滅だ! とほんきで絶望する朝をなんどもむかえても、また、やらかしてしまうんでしょうね。すこしは学習しているかもしれないけど、過去の破滅体験なんて、新しい恋の前ではほとんど役に立ちませんものね。

 さて、あまりにもうなずく部分が多くて、首が痛くなってしまうほどだったけれど、いちばん「さすがすぎる」と感嘆した箇所を最後に。

 第二次世界大戦、パリが解放されたとき、ドイツ人と仲良くしていた女たちは、みせしめとして髪を刈られて街を引きずりまわされた。このことについて。

 

 男が女たちの髪を剃ったのは愛国心とかナショナリズムからではないわ。男として裏切られたからよ。コキュってわけね。みんながコキュになったってわけ。男の嫉妬は心から生まれるよりまえに、まずこの憤慨の中から生まれるのよ。

 

(*コキュcocu ってフランス語で、 妻を寝取られた夫のこと。小説や戯曲なんかでは、ちょっと愚鈍なお人よしで、妻の浮気に気づかないで、妻の浮気相手とも親しかったりする、そういう人物として描かれる。)

 びっくり。いまジャンヌが生きていてツイッターとかに投稿したら炎上するような意見じゃない? でも、私もジャンヌの考えに近い。愛国心という名のもとに行われたあの下品な行為の根底には、男も女もやはり嫉妬が……戦時中、いい思いをした女たちに対する嫉妬めいた感情があり、報復、鬱憤をはらしたい欲望があったのだと思う。

 芸能人の不倫報道なんかの騒ぎも、その根底に似たものがあると思う。

 

『嫉妬』、みのりの多い本みたい。まだ途中だから、また書くかも。

 それにしても、やっぱりジャンヌ・モロー好きだなあ。彼女のこと、書きたいなあ。でも誰も知らないんだって。

-ブログ「言葉美術館」