■「他のどんな女とも取り換えのきかぬ女」
7月5日に書いた記事、『嫉妬』の本、最後の高橋たか子の「『嫉妬』を読んで」が面白かった。
嫉妬というのは想像力によって生ずる感情だと私はつねづね考えている。嫉妬深い人とは想像力のゆたかな人なのである。私は作家として想像力による仕事をしている人間なので、そのことがよくわかるのだが、私が想像力を有効にはたらかせて小説を書いているとすれば、嫉妬深い人というのは、想像力を無効に働かせて不幸になっているのだ。
これ、ほんと秀逸で、帯にも使われているのだけれど、私は続く次の一節でにんまりしてしまった。
いま私は、嫉妬深い人が想像力のゆたかな人だと言ったが、それは、嫉妬深い人がすぐれた人だということではない。とても頭のわるい人とか、とても鈍感な人でも、どういうわけか、嫉妬をとおして驚くべき想像力を発揮する人もいるのである。そして、こうしたことは生まれつきの性質のようにも思える。
もう、にんまり、しかないでしょう。
けれどもっと面白い箇所が中盤にあらわれる。高橋たか子の「告白めいたもの」の話だ。
私は、嫉妬するにはあまりにも誇り高い女なので、この尋常ならざる誇り高さが、嫉妬などというものをさっと散らしてしまうのである。
しかし、現在そう言いきれることができるようになるまでには、私なりのトレーニングがあった。ごく若い頃、嫉妬地獄に落ちこみそうなおそれを感じたことがあってからは、嫉妬などを決して感じないために、他のどんな女とも取り換えのきかぬ女になろうと思った。そうして自分で自分を作っていった。二十代の終り頃に、すでに、他のどんな女とも取り替えのきかぬ女の土台がつくれたと思えるようになった。さいわいに、証人としての男たちがあった。
「トレーニング」、「他のどんな女とも取り換えのきかぬ女」、そして「証人としての男たち」。このあたりの表現がたまりません。
そして、ジャンヌ・モローの言葉は自分の言葉でもある、と言う。
「自分にむかって私は唯一無二だって言えるようになったの。こういう女は私しかいない」
って言葉ね。
一方で、嫉妬と無縁でいられる理由として、唯一無二とは正反対のように見えるかもしれないけれど、とした上で次のように語る。
私にはこの世でひとかけらの値打ちもない人間だという実感がつねにあるのである。いわば、私の内部につねに私の死がある。だから、まるで自分が大変値打ちのる人間でもあるかのように男のことで猛々しく叫ぶ女たちが、私にはさっぱりわからないのである。
「他のどんな女とも取り換えのきかぬ女」と「この世でひとかけらの値打ちもない人間だという実感がつねにある」女。
嫉妬を考えたとき、これは高橋たか子も言うように、「結局は同じこと」なのだろう。
なぜなら。
嫉妬などというものは、自分と他の女とを同一平面上に置いて比較する時に生ずるものなのだ。
それで、嫉妬してる女たちは「いつも同じ目つきをしている」んだって。
それは、「底ぐろい、じいっと見る、ねばった目」なんだって。
気をつけよう。
しかし、やっぱり、高橋たか子、好きだな。
1978年に出版された本だから、当時高橋たか子は46歳くらいか。『嫉妬』の翻訳者、鈴木晶(しょう)は高橋たか子より20歳くらい若い。40年にわたって、高橋たか子のそばにいて私設秘書をしていたって。このあたりのこと、もっと知りたいな。
もっと知りたいな。ってことがあるってこういうこと。わくわくして時間があっという間に経ってしまう。ほかのことに煩わされずひとつの興味にむかって集中し研ぎ澄まされてゆく、このたまらない感覚。