ブログ「言葉美術館」

■許せませんか。

 

「許せませんか。」

「許せませんか?」という質問調でもなく、「許せませんか、、、そうかあ、許せないのかあ」というかんじでもなく、あなたはそれを許せないのだろうか、ほんとうにそうなのだろうか、そんな問いかけが含まれている口調での「許せませんか。」

 このひとことに、私はからだがしびれたようになってしまった。このひとことを私に言ったお友だちは、私が信頼し尊敬し、好意を持ち続けていられる数少ない男友だちのひとり。同年代だからそれなりの時間を生きてきて、だけど、柔軟性を失うことなく自分を疑うという作業をいつだってしているところが本当に好き。

 彼は私を否定することがほとんどないので、その日も私は、このところ不愉快な思いをさせられることの多いある人のことについて話したのだった。

 私の話を聞いて彼が最初に言ったのが「許せませんか。」だった。

 からだがしびれたようになったのは、瞬間、その選択肢が自分のなかになかったことに気づき愕然としたからだ。

 彼は続けた。

 完璧な人なんていない。そして人生にはいろんな時期がある。プライベート、仕事でうまくいっていないとき、理由もなく落ちこんでいるとき、そんなときにやらかしてしまう失態というものがあるし、他者に対しても攻撃的になってしまったりする。

 どうしてもそれがもう自分のなかで、もうだめ、というなら何も言わないけれど、「もうだめ」までいっていないのだとしたら、見守ったり、しょうがないよね、と、ようするに決定的なジャッジを下さないでいてもいいんじゃないかな。

 そんなことを彼は私にやわらかな口調で話してくれた。

 私は自分という人間の狭量さ、傲慢さに、頬を打たれ続けているような感覚のなかにいた。

 このところ、精神的にも肉体的にも、一時期のどん底状態から比べればずいぶんマシになってきていて、思い返せば、だからこそ、他者に対して攻撃的になっていたように思う。周囲の人たちの行動ひとつひとつに苛つき、悪口が多く、自分を省り見たら、到底言えないようなことを口にしていた。鈍感とも言える。

 ああ。

 

 そんな衝撃を受けた翌日、娘から、あることを言われた。実家に行った帰り道のことだった。

 両親やきょうだい、甥や姪と会ったのだけど、そのときの私の言動を見て感じたことを彼女は口にしたのだった。

「ママって、デリカシーがないとこがある。それ言われたら嫌だろうなってことを平気で口にする」

 ああ。

 私は、どこまでも穴を掘ってそこから二度と出てきたくない、って思った。

 私が嫌う人、私が嫌いな人、そのものに自分がなっている。

 

 ゲーテの言葉を思い出す。

 「他者を自分に同調させようだなんて、そんな望みをもつこと自体がそもそも愚かなことなのだ」

 私の根本的問題はここにあるかもしれない。

 周囲の人たちを自分に同調させようという、そして同調しない人は排除しようという、そういう心の動きがなかったか。もちろん意識はしていないけれど、それがどこかにあったんじゃない?

 あったよね。きっと、あった。

 誰だっけ。「すみやかに許し、くちづけはゆっくりと」、これで人生行くわ、なんて言ってたの。

 すぐに忘れるんだから、愚かすぎる。

 なにさまだと思っているのよ。じっくり反省しなさい。自分が周囲の人たちに投げかけた言葉を思い出してひとつひとつ吟味しなさい。それから出直せ。愚か者。

 かなり本気で反省している月曜日の朝だけど、一方で、「それ」を誰にどんなふうに言われるか、これが重要、とも思っている。

 そして、「このひとなら」と思えるひとたちが、私にそれを伝えてくれるということは、じつに得難いことなのだと、ひしひしと感じてもいる。

*絵はロートレックの「グルネルで」。

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