ブログ「言葉美術館」

■遣らずの雨

 

 

 病が見つかって、詳細は検査結果がまだ出ないのでわからないものの、気弱になっている母を訪ねて実家に行く日が増えている。電車に乗っている時間はおよそ2時間、家から家だと3時間ちょっとかかる。

 母は30歳のときに私を産んだから、もうすぐ85歳になる。母のことはブログでも本でも何回か書いたことがある。

 私よりもずっと元気で行動力があり陽気で、ちょっと私の娘と似ている。

 もっとも私の状態が悲惨だったとき、あれは2011年の夏の始まりだったか。ほんとうにあぶない、とぷるぷるふるえる手で電話したのは母の携帯だった。ママ、もうだめ。待ってなさい、これからすぐに行くから、待ってなさいよ。3時間後、私のところに来てくれた。このときに限らず私は母からの愛を疑ったことは1度もない。

 

 夕刻になって、父と3人でどこかにごはんを食べに行こうということになった。そのまま駅まで送るから、と。

 支度をしていたら雷の音がして激しい雨が降り始めた。これは夕立だからすぐにやむね、やむまで待ったほうがいいね。

 髪をまとめたくなって、ポーチをさぐったけれどゴムが見つからない。髪を結ぶゴムある? 2階にあるよ。母について2階にあがった。ゴムをもらって髪をとめて、窓のところに立って空を見上げた。

「なかなかやまないね」

「よくおばーさん(私の祖母)が言ってたなあ。これは遣らずの雨だってね」

「やらずの雨」

「帰ろうとする人をひきとめるかのように降ってくる雨。みーちゃんに帰ってほしくないから降ってるんだよ」

 2階は冷房が効いていなくて蒸していて私はじわじわと汗をかきはじめていた。窓を開けると、すうっと風が入ってきた。母が私の隣に立ち、私たちは窓際に並んで立ったまま、ざあざあ、と音をたてて降る雨を見ながらとりとめのない話をした。私の娘のことや、きょうだいのことなどを。

 冷房をつけよう、とか、座らない? と言ったら、この空気感がなくなるようで動けなかった。

「遣らずの雨だから。泊まっていっちゃう?」

 母が冗談っぽく笑いながら言った。

 余裕で日帰りできることもあり、ふだん実家に泊まることはほとんどない。でも、翌日も朝早くから病院の検査が入っているから、泊まって、一緒に行こうかな、とちょっと考えた。けれど原稿の締め切りもあるし、自分の体力にも自信がなかった。

 私は軽い調子で言った。

「また来るから」

 母はうなずいた。

「うん、そうだね」

 

 また空を見上げた。

「なかなかやまないね」

「あっちの空が明るかったからすぐにやむかと思ったけど、これはちょっとかかるかもしれないよ。家でごはん食べようか。おしるこがあるよ」

「季節外れのおしるこもいいね」

 母が作ってくれたおしるこを3人で食べて、両親に駅まで車で送ってもらって帰途についた。

 

 遣らずの雨。

 私の生活のことをいつも優先する母が、冗談まじりとはいえ、私をひきとめたのははじめてかもしれなかった。

-ブログ「言葉美術館」