ブログ「言葉美術館」

◆自分をさらけ出すということ

2016/06/21

A_
探し物をしていたら、胸をつかれる文章を見つけた。とは言っても自分の本なのだけれど。「特に深刻な事情があるわけではないけれど、私にはどうしても逃避が必要なのです」のあとがきにそれはあった。この本はそのあとがきでも書いている通り、以前のブログがもとになっている。

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コクトーの恋人であった俳優のジャン・マレーの言葉にこんなのがあります。
「自分をさらけ出すこと、それが他の人の助けになりうるのだ」
この本が誰かの助けになりうるならば、こんなに嬉しいことはありません。
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さらけ出すことが、どうにも嫌になってすべてを回収してしまいたい想いに苛まれることもある。本だってそうだし、ブログだってそうだ。考え方は変わってゆくけれども、一度世の中に出てしまった言葉は取り消すことができない。それがどうにもこうにもおそろしくなることがある。

これは私だけのことではもちろんなくて、多かれ少なかれ、たいていのひとがもっている感覚だと思う。澁澤龍彦はこういった感覚について「精神の排泄物だと思って諦めよう」と言った。

なんだかきたないなあ、とも思うけれど、さすがな表現力。

ジャン・マレーが言った意味での「さらけ出す」っていったいなんだろう、なんてことをあらためて考えた。偽りの表情をいくら詳細に描写したとしても、それはさらけ出したことにはならない。日常のこまごまとした動作、何を食べたとかどこに行ったとか何を買ったとか捨てたとか、そういうものを詳細に報告したとしても、それはまた違う。

「自分をさらけ出すこと、それが他の人の助けになりうるのだ」
これはおそらく、精神活動のことを言っている。どのようなものをどのように見て、どのように感じたのか、それをできる限り、真実に近いかたちで表現するということが、大切なこと。そんなふうにいまは思う。

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