ブログ「言葉美術館」

◆一級の知性と永遠の葛藤

2016/06/21

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「スコット・フィッツジェラルド作品集~わが失われし街」(中田耕治・編訳 響文社)は、本を作ることへの熱意と翻訳に挑むひとたちの真摯な想いがひしひしと伝わってくる、……なにかとても「価値」ある本だと思う。中田先生と先生の指導を受けた方々による翻訳。

久しぶりに開いてみたら、訳者のひとりである田栗美奈子さんのあとがきの、フィッツジェラルドのことを言った言葉、「救いようのない悲しみと虚無感」が胸にしみた。自己憐憫とは違うところでつめたく現在の自分を観察すると、こんな表現になるのではないか。そんなのもありかと思えた時期もあったけれど、いまは心底うんざりしている。

「こわれる」というタイトルの短編にも、はっとさせられる一文があった。

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一級の知性というものは、お互いに対立する観念を同時にもちつづけながら、はっきり自分の基準をたもっている知性である。

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「お互いに対立する観念を同時にもつ」。これがあるひとは、あまり多くないように思う。けれど、「はっきり自分の基準をたもっている」ひとは、わりと多いように思う。どちらか一方では知性のひとではない。これが難しい。いまの私には決定的に後者が欠けている。

知性についてサガンはこう言った。

「個人的に私がいちばん重要だと思うのは優しさです。本当の知性を試す基準になるのです」

「優しさ」のとらえ方も重要。軽く扱ってよい言葉ではない。私は「サガンという生き方」のなかで、知性に関するサガンの言葉をうけて、こう書いた。

「一つの事柄に対して、さまざまな視点で考えることができる。そしてその必要があれば、自分の考え方を変える柔軟性がある。自由であることを願い、だから、他の人の自由を尊重する。人間を知りたいという欲求がある。自分自身を見つめ疑うという作業をする。そこから他人に対する「優しさ」が生まれる」

ずっと前、マティスについてのエッセイを書いたとき、知性について私は、「けっして相手に劣等感を抱かせないこと」と言った。この考えはいまでも変わらない。

また最近、よくテレビの対談番組を観るのだけれど、そこでつくづく思うことは、自分のことばかりしゃべるひとは、その分野でどんな偉業を達成していようとも、知性とは程遠いひとに見えるということ。

……なんて、知性について、ここであれこれ書いても、日常的に接する身近なひとたちにとってはなぜ知性皆無人間になってしまうのか。悲しくてたまらない。なんて言っていないで、少ない知性を使って改善をはかる努力をしなければ。私がもとめる愛に満ちて胸がつまるような時間は誰かによって与えられるものではなくて、自分自身の心のなかにあるのだから。

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