ブログ「言葉美術館」

◆イエスの根拠を探して

2016/06/21

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愛読書である「荻昌弘の映画批評真剣勝負」を読み返して、なんて感受性が豊かなひとなのだろう、とあらためて感じいった。

1989年発行だから、とりあげられているのは古い映画ばかりだけれど、観たことのある映画もあり、それらの批評を読むと、いったいこれは、私が観た映画と同じ映画なのだろうか、と疑うほどに、彼は作品をすみずみまで深くじっくりと味わっている。そして、それを美しくも真摯な言葉で表現している。

その感動を私は、2003年に出版された本、「うっかり人生がすぎてしまいそうなあなたへ」に書いた。

「未知の世界に踏み込む勇気」というタイトルのエッセイのなかで、荻昌弘の文章を「それはひとつの芸術であった」と、絶賛した。

10年が経ち、いまは、「感受性」という言葉がうかぶ。彼の映画に対する知識が、彼の批評を、映画への眼差しを支えているのはわかる。けれど、それ以前に重要なのは、やはり彼の感受性なのだ。

たとえ同じ程度の知識をもち、同じ程度の文章力をもっていたとしても、感受性の乏しいひとには、彼のように映画を観ることは不可能なのだ。

フィッツジェラルドは「こわれる」という短編のなかで、「ヴァイタリティはある人にはあるし、ない人にはない」と言い切っているけれど、感受性もそれと同じなんだろうな。

思い立って、「感受性」を辞書で引いてみた。私の好きな1981年刊行の「新明解国語辞典」(三省堂)。

感受性:〔既成観念にとらわれず〕外界からの刺激によって、感動することが出来る心の働き。

年齢を重ねてゆくと、好みと関係のないところで知識や経験は蓄積されていってしまう。それに邪魔されることなく、外界からの刺激に感動する心の動きを持ち続けたい。

こういう、すこしだけせつなくて、胸がじわっとなるような感覚をもとめて、私は本や映画や絵画をあさっているのかもしれない。

私は、私自身のあり方、存在に対して私自身がイエスと言わなければ生き続けることができない。そしてときどき、イエスが言えなくなる。だから本が、映画が、絵画が必要となる。そこで私はイエスの根拠を探しているような気がする。

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