ブログ「言葉美術館」

◆存在理由と環境

2016/06/28

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大庭みな子の「続 女の男性論」を、もう何度目かわからないけれど、読んだ。好きな作家の好きな本を読むとき私はいつも、本を通して作家とおしゃべりをしているような感覚になる。

たとえば、東京のマンションの10階に住んでいる作家が、「もともとものぐさなたちなので」、重要な用事がなければ、「ときには一週間くらい全く外に出ないこともある」「土地も踏まない密室の暮らしが続く」と言えば、ああ、おんなじです、とうなずく。

うなずきつつ、私はどこかで安堵している。
大作家と自分を同列に語るのが私の悪い癖だけれど、書くということを仕事にしているのなら、「それでもいいのですよね」と思えるからだ。
家にこもって仕事に集中できているとき、そんなときでも、外出をし、身体を動かさないことは、なにかとても悪いことなのではないか、という自分への疑いがいつも薄絹のようにまとわりついている。それがふわっと取り払われる感覚が味わえて、私は安堵するのだと思う。

「続 女の男性論」におさめられている「子供の感受性」というタイトルのエッセイのなかに、こんな文章がある。

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多かれ少なかれ、人間は自分の生き方に半ば満足し、その生き方を正当化することで存在理由を見出しているから、子供にもまたごく手近な夢を与えることで満足する。

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子育てに関するエッセイなのだけれど、私は子供についてではなく、人間は自分の生き方を正当化することで存在理由を見出す、というところに立ち止まった。

存在理由を見出せなくなるから、ときどき暗く深い穴にどぼんと落ちるわけで、ならば、もしかしたら、どぼんと落ちる回数を少なくするコツは、存在理由を見出しやすい環境に自分を置くこと、自分の生き方を正当化しやすい環境に身を置くことではないか。

もちろん環境がどんなであれ自分が揺るがなければ問題はないのだけれど、揺らぎやすい私のような人間は、注意深く環境を作らなければならない。

たとえば、私が部屋にこもっていることを、「外に出て運動しないひとに未来はない」とか「毎日目に見えたお金を稼がないひとに未来はない」とか「暗いひとに未来はない」とか非難され続けたら、やはり、たいせつな感覚が少しずつすり減ってゆくだろう。

それは、毎日決まった場所にゆき、労働をすることに存在理由を見出しているひとに、「芸術的創作活動をしないひとに未来はない」的な、とっても意味不明なことを言っているのと同じ。

環境のせいにしてはいけません、というのはなんとなく正しいように思えるけれど愛がないし、やっぱり正しくない。なぜなら、どんな言葉にかこまれているか、どんな香りにつつまれているか、どんな景色を見ているか、そういったことは人間の奥底にある、たいせつな感覚につよく影響してくるからだ。

とってもしんどくなったら、ときには環境のせいにして、環境を作り変える努力をすることも必要なのかもしれない。でもそれって、環境もその人の能力のなかにあるってことになって、やっぱり、どちらにしてもしんどいのかな。

だとしても、たとえ同じしんどさであっても、それでも、変える努力にエナジーを使ったほうが、可能性はあるように思う。

そして、私自身、誰かの環境に影響を与えている、やっかいな存在であることも、ぜったい忘れちゃだめ。

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