◆パスキン展、変わったこと変わらないこと
2016/06/21
ぜったい行きたい、となんの迷いもなく思える美術展というのは、そう多くない。
私は海外の美術館で観た絵を日本で観ることをさけている。
そのときの心身の状況、その場の、あのなんともいえない、旅先の美術館特有の空気、そこで観た絵に対する想いを私、そのままの状態で自分のなかにもっていたい。
そういうセンチメンタルな事情によるけれど、これ、ちょっとした自分なりの掟みたいなもの。
この掟を破って何回か出かけて、あの日あのときの、あの感覚が台無しになって、自分を責めた経験も、掟を破った数だけある。
だからちょっと前にロセッティの絵、あれはラファエル前派展だったかな、大好きな画家たちの作品がいっぱいだったようだけど、掟を守って行かなかった。
でも、海外でもなかなかまとまったのが観られないけど大好きな画家、というのがいて、こういうのは迷わず出かける。
パスキンは個人的な体験のなかでの特別な画家。
悲しいことに酷評されることが多い『美神(ミューズ)の恋~画家に愛されたモデルたち』、これは雑誌の連載をまとめたものだけど、本にするときにどうしてもと書き下ろしたのがパスキンとパスキンのミューズ、ルーシーだった。
藤田嗣治の妻ユキは言った。
「パスキンは生涯で、ただひとりの女しか愛さなかった。その女はルーシー・クローグである。このような愛は特記するに値するほど稀なものである」。
ああ。特記するに値するほど稀な愛というものを経験したい、とエッセイを書いたときはぶるぶる体が震えるほどに切望したのを覚えている。
パスキンは、なんだろう、才能はあったけれど、どこかが決定的に弱かったのだろうか。それとも、もともと「芸術を生み出せるのは45歳まで」と言っていたからなのか。45歳で自死した。
成功が約束されたような個展の前日に、浴槽のドアノブで首をつって、壁には血文字が残されていた。
ADUEU LUCY アデュー ルーシー。
アデューって、二度と会うことのない相手に使うフランス語の、さよなら。
私はこういう、「ひとの最後の想い」に弱い。それが誰か特定の人に向けられた情念のようなものであればあるほどに泣けてくる。
今回の展覧会にはルーシーを描いた、ほんとうに美しい絵があった。
久しぶりに絵にうたれたようになって、久しぶりに絵を観て美術館で涙を流した。
今からおよそ20年前、1994年の秋に東京郊外の美術館で「パスキンとエコール・ド・パリの異邦人たち」展があり私は出かけた、とエッセイに書いている。
一緒に行こう、一か月くらい前に約束をして、けれどその一ヶ月の間にぎくしゃくとしてきて、会えばいつも別れ話にたどりついてしまうようになった恋人と、これが最後になるかもしれないと思って出かけた美術展だから、いつもより私は感じやすく、そして悲しみと近いところにいた。
そう書いている。
今回、汐留のパスキン展に出かける前、じつに久しぶりに自分のこのエッセイを読んだ。そして、20年前のあのときと今とで、私のなかで変化したことはなんだろうと、そんなことを考えながら絵を観て歩いた。
よくわからなかった。
ただ、この20年間で絵画を観ることに不感症になったり拒絶反応を覚えたり、すごく愛着を覚えたり、ぐるぐるとまわってきて、今は、またとても新鮮で敏感なかんじで絵とふれあえているみたい、ということは感じた。
人は変わる、そう思う。だけど簡単には変わらないし、魂のほんとうに中心のところは不変なのかもしれない。
そんなことを思ったパナソニック汐留ミュージアムのパスキン展だった。
世の中の、世界中のさまざまなことが凄まじい不安となって、目の前の原稿に集中できなくなるほどに不安になって、おしつぶされそうだ。
それでもどんな状況でも、私はパスキン展での涙みたいな心の動き、パスキンの最後の想いや、そういうものに感動するということを軽んじたくない。私は、とても不安なときだからこそ、美とか愛とかそういうものを見つめて、「生きる」ということを考えたい。