◆引越しとアナイスと杉崎和子先生
2017/02/08
住む場所を移ることになり、いわゆる引越しという日常が混乱する事件にここひと月ほど巻きこまれているかんじ。
小津安二郎の言葉をアレンジして「芸術のことは自分に従う。それ以外のことは流れに従う」とか言いながら、それでも引越しによる実際の労働で、創作に集中できない状態が続き、誰のせいでもない、自分で選んだことなのだから、このくらいのことは平然と乗り切らないといけない、と言い聞かせていたけれど昨夜、創作に集中できないことの欲求不満が爆発してしまった。
一人きりの夜で、だから誰にも当たれず自分に当たった。自己内の小爆発。これの行き着く先は自己否定だ。結局自分にそれだけのエナジー、情熱がないってこと。ほんとうにそうしたいという欲望があるなら、どんな状況だって創作はできる。ひどい気分の夜だった。
けれど今朝目が覚めてみたら、ああ、あのことも書いておきたかったんだ、このことも書いておきたかったんだ、という衝動みたいのがつきあげてきた。
そう、何かを生み出す前には、かならず私は昨夜のようなようすになるのだった。といつもいつも、あとになって気づく。そのときはなにもかももうだめだ、くらいになるのに。
私の人生のなかで重要なことがあったのだ。
3月7日「アナイス・ニン研究会」のこと。このことは書き残しておかないといけない。
そのメールを受信したとき、私はおびただしい物欲の排泄物とダンボールのなかで疲れきっていた。そのときはとても魅力的に思えて購入したのに、いまはぜんぜん魅力的ではないもの、これほどまでに物を多く所有しないでいようと心がけていても、こんなに排泄物があることに、私はとことん疲弊していた。
そこに届いたメール。差出人の名で心がときめいた。杉崎和子先生の名前があった。
杉崎和子先生。私が最高度に敬愛するひとの一人。アナイス・ニンと親しくし、アナイスから信頼を寄せられ、そしてアナイスを日本に紹介するために尽力なさっているお方。
杉崎先生にはじめてお会いしたのは一昨年の終わりのことだった。アナイス・ニンをはじめて日本に紹介した、これまた最高度に敬愛する作家、中田耕治先生がアナイスについてのお話をなさるというので、研究会に呼んでいただいたのだ。けれどそのときは簡単な自己紹介と中田先生のお話を伺い、研究会にいらした方々、杉崎先生ともあまり話すことはできなかった。(そのときのことは以前に書いている)
それでも私はアナイスの本のなかでも一番好きな『インセスト』に杉崎和子先生のサインをいただき、私の本『軽井沢夫人』を押しつけるという図々しいことをしていた。『軽井沢夫人』のラストに「特典 アナイス・ニンへの手紙」があり、あとがきのようなもので、アナイスに対する共鳴愛と杉崎先生についてもふれていたから。
それで、先生からのメールには、ちょっと前に研究会のご案内を差し上げたけれどメールが戻ってきてしまった、今度は届くことを祈って再送します、あなたにアナイス・ニン研究会にいらしていただけたらどんなにすてきでしょう、そんなふうな言葉があった。
ありえないほどに嬉しい言葉を私は何度もかみ締めるようにして読んだ。
そして、どんな声をあげたのか覚えていないけれど、なにか、大きな感嘆の声をあげた。するとダンボールの山の向こう側から、何事があったのかと問う声がした。娘で、彼女もダンボールに自分の荷物を積めていた。私は大声の理由を話した。すると娘は言った。ああ、それは行きたい気持ちはわかるけど、今度だけはやめたほうがいいよ。行ったら間違いなく倒れるよ。
このように娘が言うには理由があった。
杉崎先生からのメールを受信したのは2月22日の夜。引越しは2月25日で、私はようやくピアフを脱稿したばかりで、ほんとうならば虚脱状態からたいていは寝込むところ(威張ることじゃないけど)、引越しという難関を突破すべくそれもできずに気を張っていた。
そこに親戚の不幸、身内の手術が重なり身辺がざわめいていた。
まさにメイ・サートンのいう「生活はかたまってやってくる」をかみ締める日々。
追い討ちをかけるように、仕事場の移転日も予定より早まり3月2日となることが決まっていた。「芸術のことは自分に従う。それ以外のことは流れに従う」をまたまた自分にいい聞かせるようにつぶやき続ける。3月8日には『エディット・ピアフという生き方』出版記念のトークイベント。なんとしても8日まではもたせないといけない。そしてアナイス・ニン研究会は3月7日なのだった。
だから娘が言うのも無理はなかった。
けれど私はダンボールの山の向こう側に言った。
死んでも行く。杉崎和子先生にお会いしたい。
人生には、自分がどんな状況にあっても、どうしても会わなければいけないひと、そのタイミングというのがある。