◆中山可穂の新刊『男役』の一文
2016/06/21
「そうして五十年という歳月が、午睡から醒めたあとの一瞬の非現実感がずっとつきまとうようにして淡々と水のように流れた」
大好きな作家、中山可穂の新刊を、一気に読んで、いったん離れたところに置いて、それから数日の間に、この一文がふとしたときに何度も浮上してきた。
若い頃に舞台に立つことの恍惚を味わった女優が、ある事故をきっかけに引退。結婚し、子どもを産み、「平凡で穏やかな日常」を送る。舞台を下りてからのこの女優の50年を、作家は「午睡から醒めたあとの一瞬の非現実感」、これが「ずっとつきまとうよう」だったと表現した。
ああ、もしかしたら、私がときおり感じる、あの頼りない感覚はこれに近いものなのかもしれない。
非現実感。午睡から醒めたあとの一瞬の、あの感覚。
「男役」という小説のなかのこの女優は、50年もの間、そんな非現実感のなかにいた。
50年! これ、以前ならは想像もできなかったありえない感覚だけれど、いま、私はそれがなんとなくわかるように思う。
自分の足で立っていないわけではない。ちゃんと、そのときそのときの「現実的なこと」に対応している。不幸というわけではない。幸福ですらある。ただ彼女には非現実感がつきまとって離れない。
もしかしたらそれは、知ってしまった人の不幸なのかもしれない。
自分がもっとも輝くときを、生きている、という感覚が身体の奥底からぐわっと湧き出でるようなときを、知ってしまった人が、それから離れたとき、背負わなければならない感覚なのかもしれない。
幸福なときの記憶、体験があるのとないのとでは、どちらが幸せか。
そんな問いにも通ずると思う。
よい小説は、こんなふうな感覚、日常から少し離れたところに立って日常に身を置く自分を眺める時間を、もたらしてくれる。