ブログ「言葉美術館」

◆決して決して忘れてはならないもの

2016/06/21

Img_1643野上弥生子随筆集、つよく生きた人の言葉が胸にぐいぐいとくいこんでくる。

「ヒロシマに就いて」はなかでも、作家の強い信念が熱いくらいに感じられて、平常心では読めないくらいだった。

1958年73歳のときの文章。

ヒロシマを訪れた彼女は平和公園、慰霊碑に疑問を感じる。

同じお金をかけるなら、きれいな施設とかではなくて、焼け崩れた丸屋根を中心に一帯を収用して、悲惨な当時のままの姿で残したほうがよい、と言う。

早く忘れたいという気持ちのひとには残酷だろうということも承知している。

それでも。

二度とこんな憂き目には逢いたくないとする気持に、ずるく調子をあわせた平和、平和のかけ声や、外観のこぎれいな装飾で、また復興第一のはげましで、はなはだ手っとり早くすべてを忘却と変貌に誘いこむようなやり方が、果たして何十万の犠牲者の悲しみ、嘆きをほんとうに慰め、いたわる道であろうか。

そんな方法は、むしろ彼らの苦悩を軽んじ過ぎるものではあるまいか」

私は、ここの部分、作家の誤魔化しを看過しない視点に共鳴した。

そして、続くエッセイのラストの部分、一気に読ませる作家の気迫に圧倒された。

長いけれど引用する。私にとって、いま、とても大事なことがここに書かれているから。

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世の中には寛大に忘れ去るべきものと、決して決して忘れてはならないものがある。

私がヒロシマに望む設備は、後者の具体化としてであり、原水爆禁止の運動や大会にしても、平和公園などで行われるより、その廃墟においてこそ一層効果をあげるに違いない。平常でも外国から日本に訪れる人は、日光や鎌倉よりまずなにより先きにヒロシマに案内し、放射能で焦げ崩れて散乱した瓦礫のまえにつれて来たい。

語ることも説明することも要らない。

ただ黙ってそこを指すだけで、人類が人類としてこの地球に生きつづけるためには、なにをなすべきか、なにをなすべからざるかを教え得るのではなかろうか。

なにかしるしが建てたければ、それにはたった一言書きつければよい。「ここを、見よ。」

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私は今日ずっと、いろんなことをしながらも頭のかたすみでずっと「決して決して忘れてはならないもの」を考えていた。「なにをなすべきか、なにをなすべからざるか」を考えていた。

そしていま起こっていることについて、自分の内面から生まれた意見をもちたいと願った。

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