◆メイ・サートンの「失敗」とクライシスの予感
「いま最悪なのは、もはやわたしには遠い未来に希望はなく、ときめく心でなにかを待ち望むことがないということ。過ぎ去った年に失ったのは、運命についての感覚、信念ともいうべきもの。わたしが恋するひとりの人間として、また多くの作品を著した作家として、差し出さねばならないものには価値がある……つまり愛や作品に結集した、あらゆる心の戦いや苦痛には価値があるという信念だ。
ありのままを言えば、わたしは失敗したのだと思う。
状況がもっとよくなるだろうと期待するには年を取りすぎている。
わたしはこんなにも不快なやり方で<無力にされた>ので、確固とした意志で自己を律する以外に、自分を回復する道はありえない。
しかもそれはほんとうの回復とはいえず、自殺だけはせずに生きつづけ、手にしている道具を使い、その技術は唯一わたしが自由に扱えるから作家でいるというだけ。
わたしはまだ昨年の出来事から<回復>できない。
自分自身について、また自分の能力についてもっていた意識、つまりわたしの内面軌道は壊れてしまった。」
原稿に疲れて、いま、私がこれを書く意義があるのかどうか、激しい疑問に襲われて、これはいつものことだと自分に言い聞かせるけれど、今度のこの感覚は、注意深く受けとめなければいけないような気がする。
いつでも手にできるところに置いてあるメイ・サートンの『回復まで』をぱらぱらと。
上記引用箇所、「ありのままを言えば、わたしは失敗したのだと思う。」の部分だけに水色のラインが引かれていた。前後をじっくり読んで、今日は強く胸を打たれたから、ここに書き残そうと思った。
メイ・サートン、66歳の日記。
彼女が不快なやり方で無力にされた、と言っているのは、前の年の恋人との破局のこと。
こんなふうに、すべてに絶望しながら、それでも彼女は「回復」して、創作を続けた。83歳まで。そこに励まされるときとそうでないときがある。いまはそうでもない。
自分自身の経験、創作には価値があるという信念。
これを失ったときがいかに苦しいか、少しは私にもわかる。サートンほどの作家ではなくったって、わかる。いつものように、図々しくサートンのこの部分の告白を、私は自分の告白と重ねる。
このところ、嫌な感じがしている。嫌な、という言い方は適当ではないかも。また、別の感覚で生きてみたい、という衝動が起りつつある、そういうのを感じていて、嫌だ。
だって、現状を変えることはひどくエネルギーを費やすから。疲れるから。いろんな人との摩擦があるから。
BGMで流していたマイケル・ナイマンの「ザ・ピアノ・コンチェルト」、最高に好きな部分、原稿の手を止めて、リモコンで大音量にして目を閉じた。なんて命をかきたてる音なのだろう。ふと思い立って、マイケル・ナイマンのCDをネットで探し、映画音楽のベスト盤を購入。私のなかの命を動かしたくて。
命は動かしたいけれど、もっと静かなところに行きたい。静かなところで、自らの内側からなにが出てくるのか、そういうことを私は知りたい。てきとうに、いいかげんに生きることだけには、慣れたくないけれど、このままだとそんなふうになってしまいそうで、怖いから。嫌なものは嫌だといい、好きなものを好きと言う、そういうやり方が好きなはずなのに、ぜんぜん、できていないから。
ぜんぜんできていない、って自覚しているくせに、それを変えようとしないのはなぜ。あなたは何を守ろうとしているの、それはそこまでして守らなければならないものなの、いったいなんだっていうのよっ、と自分を詰問したい気分。
けっして暗いわけではない。なんだろう、クライシスの予感かな。