ブログ「言葉美術館」

◆孤独とは無縁のとき

2016/11/27

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 年下のお友達から久しぶりにメールをいただいた。さいきん連絡がないから心配はしていたけれど、「あなたのことを心配しています」という内容のメールを送ったら鬱陶しいだろうなと、お友達とは言ったものの、彼女との距離を測りかねているような、そういう関係だから、私は彼女から連絡が来るまで、おとなしくしていようと思っていた。

 そして彼女からの久しぶりのメール、そこには、妊娠したことが書かれていた。彼女が苦しみながら、ずーっと望んでいたことだと知っていたから、ひかえめな文面でありながら喜びが伝わってくるそのメールに、私はじんわりと目の奥が熱くなった。

 すぐに返信を書いた。私は母部門が大の苦手で、子ども関係のことを書くことにすごくエネルギーを要する。なぜか、子どものことについては嘘をついてはいけないように思う。他はかなりの嘘つきではあっても。

 だから注意深く言葉を選んだ。私は自分のなかに、もう一つの命が宿っていた、あの日々が、いま思えば、唯一、孤独と無縁だった気がしています。そんな日々をどうぞ慈しんで、お大事になさってくださいね。

 書きながら、ばかみたいに涙がこみあげてきた。自分のなかから生まれた言葉に、ああ、たしかにそうだった、とあの日々を強烈に懐しんだからだった。十月十日とかいうけど、実際には7か月くらいかな。あの日々。あの感覚。あのしあわせ。みょうな充足感。

 そして自分のなかから、命が生まれ出た瞬間から、その命は、一人の人間として、自分とは別個のものとして存在する。その喜び、淋しさ。孤独再び。

 別個の存在として、私の人生の中心にたしかに存在する愛しい命は、いつ思いをはせても宝物だと思う。いつ見ても、宝物がそこにいると思う。それでもそんな宝物も、ときに我慢ならない言動をとる。私はそれが良いことなのか悪いことなのかわからない。世間一般の感覚も、わからないし知りたくもない。だから私的な言い方しかできない。つまり、私はそれがとても嫌です。そのことで嫌な気分になっています。そういう言い方しかできない。ずっとそうだ。

 編集者さんと夜食事しながら次作の相談をしましょう、ということになっていて、私の家の近くで食事をする予定だったけれど、突然、電車に乗って別の街に行きたくなったのはなぜだろう、とスケジュール帳を見てみたら、まる5日間、ほとんど家を出ていなかった。それで「お出かけ」がしたくなったのだと思う。それを編集者さんに伝えたら、りっぱな引きこもりですねー、と感心された。その編集者さんとも、もう12年くらいのおつき合いになる。そんなことも話した。ずっと見捨てないでいてくれてほんとうに嬉しい。

 愛を感じたり、愛なんてどこにもない、と不貞腐れたりしながら、今日も一日が終わろうとしている。

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