ブログ「言葉美術館」

◆こわい誘惑と「私はここにいる」

2016/11/27

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 ずいぶん年下のお友達とおしゃべりをしたときのことを考えている。なぜかといえば、ずいぶんお説教臭いことを言ってしまったのではないかと気にしていたら、まさに、気にしていたその言葉をひろって、その言葉が「とてもインパクトがあった」という内容の、たぶん肯定的なメールが届いたからだ。

 いま大好きな須賀敦子の本を読んでいて、それは『霧のむこうに住みたい』という、タイトルだけで購入決定の作品集。「霧」という文字をみただけで軽井沢の霧を思い出して胸がくるしくなる。

 須賀敦子のたいていの本はもっているけれど、これは未読のものがまとめてられているみたいだから購入した。あらためて、彼女の文体、視線、表現力にうっとりとする。

 須賀敦子がその作品をいくつか翻訳したナタリア・ギンズブルクについて書かれたエッセイがあって、そこでナタリアが須賀敦子からしてみれば生々しすぎる政治的な作品を書いたことにふれて「かつてのプルーストの翻訳者が、社会参加の本を書いてしまったことについて、私は考えをまとめかねていた」と言い、続けて次のように書いている。

「ずっと以前、友人の修道士が、宗教家にとってこわい誘惑のひとつは、社会にとってすぐに有益な人間になりたいとする欲望だと言っていたのを、私は思い出した。文学にとっても似たことが言えるのではないか」

 私は、この文章が胸に響いていたものだから、ちょっと見当違いかもしれないけれど、自分が年下のお友達に言ったことなども、この「こわい誘惑」のにおいがしないだろうかと自問し、気にしていたのだった。いじいじと。

 だから、私が言ったことは、もしかしたら「こわい誘惑」に負けた言葉だとしても、お友達がそれを肯定的に受け取ってくれたことにほっとした。彼女はとても頭がよくて、とても感受性がするどくて、とても正直で、そして、この世の中をすいすいと器用にわたっていけるような人ではない。

 私は彼女の存在を、私の理解者として、とても心強く思っているし、彼女は良い仕事をすべき人だと思っている。

 私が彼女にそのとき語ったのは、25歳のときに「アートサロン時間旅行」という、カルチャースクールを目指した組織を立ち上げたときの話だ。お金もなく実績もなく、なんにもなく、ただそれをしたい、というエネルギーだけがあった。周囲の誰もが無謀だ、うまくいくわけないと言った。当時はインターネットも携帯電話もなかった。ワープロは使っていたかな。
 私はひたすらに、手当たり次第に、雑誌の編集部あてにDMを送り続けた。こんなのをしています、貴誌でとりあげてください、という文章とスタッフの写真をつけて、「これが私です!25歳、がんばります!」と油性のマジックで書いたりしていた。

 どんなに情熱があっても、どんなに大きな夢を抱いていても、行動を起こさなければ、だれも私を発見してはくれない。

「私はここにいる!」と声を上げなければ、手を挙げなければ、発見される可能性はゼロだ。

 そう思って、ひたすらDMを出し続けた。そうしたら、当時の『FRaU』編集長から、DMを見たことと面白そうだから取材したいとの連絡があったのだ。

 「私はここにいる!」この話がインパクトがあったと、お友達は言ってくれた。

 私はここにいる。

 思えば、あれから25年、ずっと言い続けているように思う。私はここにいる、発見してほしい。そう願い続けているように思う。

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