ブログ「言葉美術館」

■安吾■「山本耀司と坂口安吾」

2017/06/12

「ファッションというのは物書きでさえ書けない、言葉にできないものを形にする最先端の表現だと思っています。だからどんなに知性があってもファッションをばかにしている人は信用できない。たとえ評論家や建築家であってもです。着ている服でその人が本物かどうかわかります」

「服を作る~モードを超えて」(山本耀司 宮智泉(聞き手))を読んだ。

1943年生まれ。この本を読んでびっくりしたのは、坂口安吾、中島みゆき、ヴィム・ヴェンダース、ピナ・バウシュなど、彼が好きな人たちとして名前を出す表現者、そのほとんど私も好きだったことだ。

彼の坂口安吾に対する想いは深く、20年以上前、欧米のジャーナリストに自分のことを言葉で伝えようとしたとき、坂口安吾の「堕落論」と「日本文化私観」を英訳して読んでもらったくらい。

自分のことを伝えるときに坂口安吾の作品を使う。

これは、そうとう作家を愛し、自分の心の奥に共鳴するものをもっていなければできないことだろう。

私はいちおう物書きだからしないけれど、もし違う形で何かを表現することをしていたら、山本耀司と同じように坂口安吾を使うだろう、それから大庭みな子、アナイス・ニン。

山本耀司は言う。

「彼の作品には、表現者である以上、インモラルなことに対しても深入りしないと、見えるものも見えないと書いてあった。僕が当時、思い悩んでいたことが、何の恥じらいもなく書いてあったんです。生きた時代は違うけれど、芸術とか文化は時代に関係なくつながるところがある。自分が考えていたことが言葉になっていた」

「作家の坂口安吾の言葉を借りれば「それを表現しないと、死ぬしかない」というくらい追い詰められているのか、という自分への問いかけが作家にないと、本当にいい表現はできない」

「服作りに対する思いはまったく衰えることがありません。坂口安吾ではないけれど、命と引き換えにものを作っている。自分のさだめに自分を捧げている。そういう風に決めてしまえば楽です」

と坂口安吾がちらほら登場する。

そう、坂口安吾は「命がけ」の人だった。

私は最近もある編集者さんにお話したのだけれど、今書いている本が最後になってもいいの? と自問し、いいよ、と答えられる本を書きたいと思っている。

100パーセントなんて奇跡なので、70パーセントその状態であれば幸せだ。

一冊だけ100パーセントのときがあった。
あのときは、どうかこれを書き終えるまでは死にませんように、と祈るように毎日を生きた。
一生に一度そんなのがあればじゅうぶんと思うか思わないか。

現実は厳しい。
その厳しいなかで、いったいどのくらい自分の信念に近いことをしてゆけるのか、命と引き換えにしてもよい、と思えることをどのくらいできるのか、私の人生の幸福はそういうところにある。

山本耀司の服が着たくなった。まだ、似合わないかな。似合うときはくるのかな。

 

 

 

 

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