ブログ「言葉美術館」

■安吾の「ただの文学」■

2016/07/01

51vk97smxxl__sl500_sy344_bo12042032ここ一週間の夜の恋人は坂口安吾。

と言っただけで親しい何人かの人は「そっか。彼女は自信満々バリバリモードとは程遠い、クライシスワールドにいるのか」と思うはず。そういう人がいることがすごく幸せなのだと感じられるところまで、いまきている。

昨夜は「ただの文学」というエッセイを読んで、文庫本を抱きしめてしまった。比喩ではなく、ほんとに抱きしめた。そうよね、そうよ、だいすき、あんご。

内容は、歴史文学ってものはあるのか? じゃあそれに対抗する文学ってなんだ? 僕には意味不明な分類だ、といったことからはじまって、安吾節が炸裂する。

いわゆる歴史文学で言われがちな、「どれほど真実に近いか」という問題について。

たとえば「小野小町」。どの小野小町に似る必要もない、「どこにもほんとの小野小町はいやしない」。だから、「何人の小野小町が存在してもかまわないし、存在することができさえすれば、文学として、それでいいのではないか」と言う。

そして自分が自伝的小説を書いても、同じことが言える、と言う。実際に在りのままを書いているけれども、だから「真実」であるとは「僕自身言うことができぬ」。

「なぜなら、僕自身の生活は、あの同じ生活の時においても、書かれたものの何千倍何万倍とあり、つまり何万分の一を選びだしたのだからである。

選ぶということには、同時に捨てられた真実があるということを意味し、僕は嘘は書かなかったが、選んだという事柄のうちには、すでに嘘をついていることを意味する

(これって日常生活のなかで私が常に感じていること)

嘘と真実に関する限り、結局、ほんとうの真実などというものはなく、歴史も現代もありはしない。

自分の観点が確立し、スタイルが確立していれば、とにかく、小説的実在となりうるだけだ、文学は各人各説で、理屈はどうでも構わないのだ」

安吾を読んでいると、なんて精神が自由な人なのだろう、と思う。胸が熱くなる。憧れ、少しでも近づきたいと願う。

あいもかわらず、ぜんぜん自由じゃないじゃん、と自分でつっこみたい精神をもてあまして、さらに、人との距離感に臆病なまま結局、慎重すぎて失敗したり、そんななかでも優しくて愛しい色彩に心なぐさめられて、昼間でも氷点下の軽井沢で、今日もひとり奮闘している。

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