■■泣けるほどに美しい、リジー記念日■■
2020/05/17
土曜日、体調はまだ完全ではなくて、かなりだるいかんじだったけれど、仕事の打ち合わせに銀座に出かけた。
ほかに用事はなくて、やはり体力がもたなかったから、ほんとにその打ち合わせだけで、帰ってきてしまった。
珍しいことだ。
打ち合わせというと、とっても無機質なかんじがする。
インドカレーを食べてチャイを飲みながら三時間近くにおよんだ、あの時間は、このところの私にとって極上のひとときだった。
私の仕事を理解してくれているひととの時間だったからか。たぶん、それが大きいのだろう。
けれどそれ以上のなにかがあった。
それは何だろう、と考えると、「理解」が、かぎりなく私の内部にあるものを見抜いた形での理解が、そこにあったからだと思う。
売れる本を作りたいのは誰でも思うことだ。
私だってそうだ。
けれどそのひとと話すなかで、私は自分がすべきことをしずかに見たように思った。
帰りの新幹線はちょうど日没の時間で、大きな夕陽が沈んでゆくのを眺められた。
ゆらゆらとゆらめく熟れたオレンジのような夕陽は私の胸をついた。
まだ風邪をひきずっていたし涙腺が弱いのはしかたがない、とすべてを体調のせいにしながら、そして、頭のなかを、ひとつのセリフがたゆたっていた。
あなたの作品の魅力はシャネルの本もそうですけど、それからいつも言いますけどわたしが好きなロセッティとリジーのあのエッセイ……読んだあとに胸に残るもの……それだと思うんです。
読んだあとに、何かが胸にしずかに残るんです。それなんです。
帰宅してつい自分のエッセイを読み返してしまった。
こういうこともあまりない。珍しいことだ。
「別冊歴史読本」の「英王国恋物語」に書かせてもらった三本のエッセイのうちのひとつ。
さいごは
「泣けるほどに美しい季節だった。」
で終わっていた。
あの新幹線から眺めた夕陽は泣けるほどに美しかった。
4月3日はリジー記念日。
4日日曜日はすこし寝込んでしまったけれど、5日月曜日、今朝は起きて、ひととひととの出会いと関わりとタイミングというものに考えを泳がせている。