ブログ「言葉美術館」

■■サガンの言葉と信仰と恋■■

2016/06/30

81sj0zq8lkl__sl1500_原稿を書いていると、ときどき眼がかすむ、瞼を閉じて深呼吸をする。ふとサガンの言葉が浮かんだ。

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ひとは何かをするときに、「どうしてそれをするのか」、その理由や目的を考えないで、「どのようにすればよいか」と方法ばかり考えるようになってしまいました。

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私も、そこに陥らないように。

「どうしてそれを書くのか」を忘れ「どのように書けばよいか」と方法ばかり考えないように。

サガンの小説を、ひそかに愛読していた遠い日の知人を思い出す。

彼はクリスチャンで、三十歳を越えてから信者になったと言うから、その理由を聞いたら、すこし照れながら、「いつも誰かの目がある、誰かに見られている、そういう状況に身を置きたかったんだよね」と頭の斜め上あたりを指さして言った。

私は「わかりますわかります!」と同調した。「恋とそっくりです。恋をするとそのひとのまなざしがいつも、このへんにあって(頭の斜め上あたりを指さす)、いつも見られているようなかんじになりますから!」

彼は、まじまじと私を見て、「信仰と恋を一緒にするかね、この子は」と言って私の頭を撫でた(注:私はそのころ若かった)。

彼、元気かな。たしか私よりひとまわりくらい上だったからもう五十代後半。サガンの本、『サガンという生き方』に気づいて、手にとってくれたら嬉しい。書きながら、私は貴方のことを思い出していました。

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