◎Tango ブログ「言葉美術館」

◾️大原美術館、過去と現在、モディリアーニとカリエール

 

 岡山でのトークイベントが終了したのが15時すぎ。イベントのことはまた別で書こうと思う。

 その夜、私はタンゴサロン・ロカで踊りたかったから、遅くとも22時にはロカに着きたかった。逆算すると18時ころの新幹線に乗る必要があり、チケットも買ってあった。

 数時間の間に、どうしてもしたいことがあった。

 岡山駅から電車で20分くらいの倉敷に行きたかった。倉敷の大原美術館。

 モディリアーニが描いたジャンヌ・エビュテルヌの肖像画がある。

 ずっとずっと前、モディリアーニとジャンヌに夢中になってパリのペール・ラシェーズ墓地、ふたりが眠るお墓まで行ったりもした。処女作「彼女はなぜ愛され、描かれたのか」にももちろん書いた。お墓に花を手向けたことも。

 モディリアーニの絵をまとめて観られる美術館はなくて、そもそもそれほど作品の多い人ではないから、国内にモディリアーニの、しかもジャンヌを描いた絵がある美術館があると知ったとき、私はすぐにでも行こうかと思ったくらいだ。けれどいつかなんらかの機会があるだろうと、そのときは実行に移さず、こんなにときが経ってしまった。25年。

 すでに過去だった。 モディリアーニとジャンヌの悲劇は私にとって。

 彼らのことを思うと、なつかしさに胸が苦しくなるけれど、やはり過去のこと。けれど、岡山まで行ってそのまま帰るというほど、どうでもいい過去ではない。

 人生にはどうでもいい過去とどうでもよくない過去というのがある。

 やはりジャンヌに逢いたい。閉館時間が17時だったから、在来線に乗って、駅からタクシーで急いで美術館に行った。

 倉敷の美観地区、川が流れ、その両岸にお土産屋さんが並ぶ。
 雨がぱらついていて、傘をもっていなかったから、そして時間のこともあり、小走りで美術館に向かった。

 入り口、大原美術館、の文字を目にしたとき、おかしな現象が起きた。

 私、ずっとここに来たかったんだ、と胸がぎゅっと熱くなったのだ。25年のときが瞬時に縮まって、あの頃の感覚がリアルに蘇り、現在になったみたいな。

 チケット売場で、モディリアーニの絵は本館ですね? と確認。別館もあるから間違えないように。もう16時をまわっていた。
 17時閉館ですから、と優しく教えてくれた売場の女性にうなずいて、チケット売場正面、本館に入る。順路がある。好きな作家の作品が多い。けれど立ちどまるほどのものはなく、私はひたすらにジャンヌを目指す。

 そして、その絵の前に立ち、自分のなかにどんな感情が芽生えるのだろう、とどこかでおそれながら、モディリアーニが描いた愛する人、ジャンヌの肖像画を観た。

 その絵の前に立つまでは、もう過去だから、以前のような、こころの奥底からわあ、っとこみあげるようなものはもうないだろう、と思っていた。

 けれど。

 やはり本物には、本物にしかもちえない力があった。

 モディリアーニの絵は私を動かした。
 彼らの物語が、陳腐な表現だけど走馬灯のように私のからだをめぐり、この絵が描かれてから一年後に死んでしまうふたりの人生が私を支配した。

 モディリアーニのあとを追って、自宅アパルトマンから身投げしたジャンヌ。残された幼い娘。ほとんど臨月だった、おなかのなかの命。

 ふたりの人生に夢中になっていた25年前、そして処女作が出版された20年前、私は愛に殉じたジャンヌを羨ましいと思った。愛する人を追って死ぬなんて最高の女のロマンだと思った。自分にはできないから、当時は幼い娘がいたから絶対できないから、だからこそ羨んだ。

 じゃあいまはどうかと問われれば、やはり私は殉じたい。できるかできないかは別のところで、殉じたいと願う。そこまでの愛が欲しい。

 しばらく絵の前でたたずんで、涙腺が刺激され、中央の椅子に腰をおろして、またしばらく絵を見つめていた。

 すごく遠いところにひとりで来てしまったかのような感覚があった。静かな孤独の海をただよっているみたいな。

 時間も気になっていたし、疲れた足をひきずってほかの絵をざっと観て帰ろうと思った。

 そして思いがけず、一枚の絵に出逢った。

 はじめて観る絵だった。引き寄せられるって、こういうことを言うのだと思う。

 私はその絵に引き寄せられた。はじめて観る絵なのに懐かしさがあった。ノスタルジーと、そこに描かれているのが他人とは思えないような、そんな気持ちで胸がざわめいた。

 画家の名前をメモしてその場を立ち去った。

 ミュージアムショップで2枚のカードを買った。ジャンヌのと、心惹かれたもう一枚の絵のカード。

 ノスタルジーを感じたのも当然だった。

 画家の名前はウジェーヌ・カリエール。19世紀フランス、象徴主義(サンボリズム)の画家だった。

 サンボリズム! 私が好きな世界。ベルギーのフェルナン・クノップフもそう。

 絵のタイトルは「想い」。

 カリエール、霧の画家なんて呼ばれたりもする。

 霧。

 私、好きなはずだ。

 この絵との出逢いは、ほんとうに思いもよらなかったことで、こんなに好きだと思える絵に出逢えたこと、カリエールの「想い」は、私の現在、絵画との倦怠期なのでは、と疑っていた現在を、そんなことない、と否定してくれようで、そのことがなにより嬉しかった。

 大原美術館、滞在時間はせいぜい30分。けれど時間はやはり私にとっては重要ではない。数分でも、感じとるべきものなら感じとるだろうし、何時間いたって感じとるべきものがなければ何も感じとらない。

 それにしても不思議なことに、カリエールの「想い」との出逢いは、さらに私を遠い異国にいるような感覚にさせた。

 だからチケットを変更して急いで飛び乗った新幹線、新横浜で降りて、いつものコースで学芸大学の駅に着き、着替えて2階のタンゴサロン・ロカで大好きな人たちに、おかえりなさい、って言われたときは、ほんとうに遠いとこから、帰るべきところ、帰りたいところに帰ってきた感があり、ちょっと胸が熱くなった。

 その夜のタンゴは、そういう意味で、またいつもと違った、どこかノスタルジーの香りが漂う、そういうタンゴだった。

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