ゆかいな仲間たち よいこの映画時間
◎21本目 『ナチュラルウーマン』
皆様、ご無沙汰しております。
ご機嫌いかがでしょうか。
しばらく冬眠していた私たちですが、春の幕開けと共に復活致します。
「よいこの映画時間」 第2幕を飾る最初の1本は、トランスジェンダーの女性を主人公にした『ナチュラルウーマン』です。
【あらすじ】
ウェイトレスをしながらナイトクラブのシンガーとして歌っているトランスジェンダーのマリーナ(ダニエラ・ベガ)。
歳の離れた恋人オルランド(フランシスコ・レジェス)と暮らしていたが、オルランドは自身の誕生日の日に亡くなってしまう。
オルランドの死により、マリーナはトラブルに巻き込まれ、差別や偏見を受けていくのだが…。
やっぱり映画館で観る映画はいいわね。家でDVDを観るのとは違う。家だと気軽にiPadで観たり、Amazonプライムで観ることは出来るけれど、集中力が全然違う。
全然違いますね。家で観てると、ちょっと途切れちゃったり、気が散ったりする時もありますし。
今年のアカデミー賞を受賞した作品で、半魚人と喋ることの出来ない女の人の話です。
アメリカの作品にしては、ジメジメとした雰囲気がありました。勿論アメリカ的要素があり、終わり方もハッピーエンドなのですが、少しモヤモヤとする感じで終ります。なので思っていたよりも、好印象でした。最近のアカデミー賞は、マイノリティを扱う作品が多いような気がします。昨年も『ムーンライト』でゲイが扱われていたし、今回も喋ることが出来ない人物や、特異ではあるけれど半魚人も出てくる。
私は年末に『ル・コルビュジエとアイリーン 追憶のヴィラ』を観たの。あれはとても良かった。DVDではちょこちょこ観てはいるけれど、映画館で最後に観たのはそれくらいかしら。
久しぶりに映画館で座らされて、集中したの。ずっと映画館に行っていなかったし、何となく集中したかった。今日映画館で観て、やっぱり映画館で観るとこんなに違うんだっていうのも分かった。そして今日の映画も本当に良かった。
映画ってつくづく非日常だと思うの。この非日常は「ファンタスティック」という意味ではなく、今自分が日々行なっている細々としたことや、ちょっとした悩みとは違う別世界のこと。それを観せられた感じ。もちろん国も違うし、言葉も違う。そういう非日常を集中して目の当たりにして、その世界と対峙することで、こんなに自分の中に大きな余白が生まれて、俯瞰できるんだと感じたの。映画の良さを語る会みたいになってしまったわ。
もっとこうぶっ飛んでしまっても良いのかなって。もっと自分に忠実に生きても良いのかもって思った。
周りからしてみればきっと大迷惑かもしれませんけど(笑)。
でも何となく分かります。まだやるの?って思われるかもしれないけれど。
自分はゲイだし、マイノリティとして扱われるので、彼女と近しい存在ではあると思うんです。だからこそ彼女が経験してきたことは、今後自分も経験する可能性があるような気がするんです。
例えば家族じゃないと面会出来ないとか、パートナーの葬式に出ないでくれって言われたりだとか。そう言われる可能性はとても高い。そういうのをマリーナの目線を通して観ていたから、ずっと苦しかったです。彼女に起こることは自分にも起こることという目で観ていましたから。
愛人とかも一緒。女であっても、妻ではないから何も出来ない。病院の手続きも出来ないし、葬儀への参列も拒否される。だから私にも十分起こり得ることなのよ。どんなに愛していても、どんなに大切でも、そんなものは関係なくなる。愛情がどれだけあったかは関係ない。
結局マリーナがきっかけで、オルランド(フランシスコ・レジェス)は奥さんと別れたのよね?
だから奥さんもマリーナに対して恨みは抱いているだろうから、可哀想だなとは思うよ。
駐車場のシーンで、奥さんがマリーナに対して「オルランドとは”ノーマル“な夫婦だった。事情を説明されて変態だと思った。目の前のあなたが理解できない。神話のキマイラ(怪物)みたい」と、言っていたけれど、ああいう神経を持った人がほとんどなのよね。あれがマジョリティ。
最近はテレビなどでもトランスジェンダーの人が出演していたり、題材にされたりしているので、少しずつ理解は増えてきているけれど、やっぱり分からなかったり知らない人の方がまだまだ多いですよね。
分からないと思っている人も、テレビに出ているような人なら想像出来る。でも日常生活にそういった人達が現れた時に、テレビの中の人は許せても、目の前に現れた人は許せないっていうのはあるかもしれないわね。
実際は個々の人物で違うのに、皆が皆テレビに出てる人と同じ考えをしていると思っている人が多い。だからこそテレビと現実世界に差が生まれてしまったりしてしまうんですよね。良くも悪くもメディアの力というものを感じます。
私、今丁度、中山可穂の小説を読み直しているの。彼女のセクシュアリティはレズビアンで、それを公言して書き始めてバッシングを受けた時期もあるらしいの。
彼女の作品で王寺ミチル三部作の完結編に『愛の国』という作品があるの。日本が愛国党というのに支配されてナチ政権のようになり、同性愛者禁止法によって同性愛者は収容所にぶち込まれていく中、レジスタンスの人が戦っていくという話。その本のあとがきには、ロシアでも「同性愛宣言禁止法(未成年に対して公の場で、ゲイなどの「非伝統的な性的関係」を知らしめる行為を禁止する法律。2013年制定。)」が成立したし、本に描かれている事は架空の話ではなくて誰にでも起こり得るって書いてあった。
そういうのを読んだばかりの時に、『ナチュラルウーマン』ってそういう話なんだな程度で、予告編もとても綺麗だったから、余計に私も入り込み方が激しかった。
マイノリティに対するそういった発言って、本人達は無意識に言っているんですよね。恐らく無意識。
意識なんかしていないと思う。無邪気に言っている。そういうのが一番怖いわね。そういう人達がマジョリティだから、考え方が悪くなっていくんでしょう?
ちょっと待って…って考える思考回路をあまり持たないのよね。
疑問もないし、理解しようという気持ちがあまりない。もちろん映画の中では奥さんは旦那さんを取られたからっていうのはあるけれど。
息子もそうなのかな。お父さんを取られたみたいな気持ち?
でもお父さんが愛した人よ?…という発想がきっとないのね。
特異なケースではありますよね。旦那さんがいわゆる女性に取られてしまったという訳ではないので。
例えばそれがトランスジェンダーではなく女性であっても、奥さんは同じ態度を取ると思いますか?
息子の態度もきっとそうで、分からない存在だからこその無意識の暴力が働いているような気もします。
でもやっぱり、ひとつのイジメみたいなものもあるでしょう?
テープで顔をぐるぐる巻きにして、誘拐もどきのようなことをしてるシーンもありましたね。表現として過剰に出しているようにも見えるシーンでしたが。
あれぐらいのことをする人も多いと思う。刑事や病院の人達との接し方を見ていると、マリーナがどれだけの人生を歩んできたのかというのが分かるわね。諦めというのが瞳の中にあって、表情もあまり変えないし、反抗したりもしない。人生の中でどれだけの無理解と怪物的な扱いを受けて、自分はそうされてもしようがないんだという諦めが切なくて切なくて。
そうそう。私は何年もそういう人に関わっているって。
事件一つひとつが女刑事にとっては研究対象なんでしょうね。
救う為じゃないのよね。自分の標本を増やしたいだけ。そのいやらしさが凄く伝わってきた。
役者さんがとても上手かった。奥さんも女刑事も、同じ瞳をしていたもの。安心感の上にあぐらをかいているような感じの瞳。やっぱりマジョリティなのよ。マリーナのような戦ってきている人のまなざしとは違う。
だから奥さんも女刑事も、マリーナを対等な人間として扱っていない。
マリーナ役の女優さん、本当にトランスジェンダーの方なんですよね。
8歳でオペラ歌手としての才能を認められて、その後演劇を始めたってパンフレットには書いてあります。
面白いところは、お化粧を濃くすれば濃くする程、男性性が出てきていたわね。ナチュラルなメイクだったり、すっぴんに近いメイクだと女性らしく見えるのに。
でも美しい。向かい風のシーンも印象的。最初のシーンは『ブエノスアイレス』を連想した。
イグナスの滝!
あれ?ちょっと観たことのある感じだなって思ってました。
オマージュかな?ってね…パンフレットにも同じことが書いてある(笑)。
イグナスの滝に行きたいと思っていて、昨日もイグナスの滝の映像を観たばっかりだったのよ。
劇中の歌アレサ・フランクリンの『Natural Woman』の「あなたと一緒だとありのままの女(あたし)でいられる」という歌詞、良かった。最後に流れていた、アラン・パーソンズ・プロジェクトの『Time』も良かったし。音楽がとても良い。
可哀想な話ではあるけれど、そんなに愛し愛されるような関係の恋人がいたのよね。最後は逢えるように導いてくれもしているし。
常にオルランドの幻影みたいな存在が見守っている感じ。
マリーナは涙をほとんど流さなかったですね。
際立ちますよね。私も昔同じことを思ったことがあるのですが、それまではとても哀しいけれど、火葬することで諦めというか…終わってしまったというか…どこかで気持ちに距離が出来るような気がするんですよね。整理を付けるというか。
マリーナは、オルランドの遺体を見ただけでは気持ちに整理がつかなかったんじゃないかなって思うんです。やっぱり火を点ける瞬間を見届けたことで、次のステップにちゃんと進もうって思ったんじゃないかな。
ちゃんとそれが出来るように、オルランドの幻影は導いてくれたということかしらね。
オルランドの人物像ってそんなに出てこないけれど、存在感がある。彼女を愛してくれて有難うと言いたくなるくらい。
ロッカーのシーンはチケットがあると思ってた(笑)。
私も!(笑)。
最初に探していた大きい白い封筒があるのかなって。まんまとやられましたね。
(監督はこのシーンについて「映画の中に”無“を作りたかった。映画は、スクリーン上に存在するものだけではなく、存在しないものによっても、ストーリーを伝えることができる。と話しています。そこに何があったか、もしくは何もなかったのかは自分達で考えて欲しいという監督からのメッセージだったということでしょうか。)
たまにポップなシーンが入りますよね。さっき路子さんが話していた、風に立ち向かっていくシーンや、クラブでのミュージカルシーンだとか。
クラブのシーンは多分『ブエノスアイレス』でも話しましたが、喪失感を紛らわせるために他の男と関係を持つってやつですよね。でもやっぱり気分は晴れない。
だけどあの時間は必要なのよね。でも過酷。好きな人を失って、一番哀しいはずの人が疑われたり、罵られたり。
ずっと戦ってきたのよ。そういうのがボクシングのシーンに表現されてる。
だってあの実力があれば、殴ることも出来ましたもんね。
そうよ。でもそれをやったらダメだから。どうにもならないから。
爆発するのは、車の上に乗って、犬を返せ!って言っているシーンだけよね。
それだって爆発した相手に悪口を言うとかではない。自分で受けた痛みや傷を人に返すということはしない。
だからやっぱり諦めがあるんだと思う。言ってもどうせわからないんだって。どちらかと言えば、そちらの方が上から目線なのかもしれないわね。でも上から目線とも違うか…。
諦めるって私は傲慢だと思っているの。私は自分がそうだし、相手に期待しない。
だからこそ、たまにあるポップなシーンで一息つけましたね。
私は別に性的にマイノリティではないけれど、とても共鳴したの。
心は女性、身体は男性という人達がいる中で、手術までしようと思う人と、そこまではしないという人がいるでしょう?
手術をしたい、したくない等は、正直私も詳しくはないです。一括りのようにLGBTと言われてはいますが、その中でさえも分かれている気がします。だからトランスジェンダーに関しては分からない部分も沢山あります。複雑な部分も多いように感じますし、それこそ決まっている定義に当てはめるというのともちょっと違いますし、簡単に一言でこれっていう風には言えないです。
マリーナのお姉さんは一応理解者として出てくるのよね?
そうだと思います。お姉さんとそのパートナー。あとはオルランドの弟もだけれど、かと言って…。
そういう人は多いと思います。理解はしているけど、自分に被害が…。
鏡の使い方も上手かったわね。ネイルサロンから出てきた時に、大きな鏡を運ぶ人達に遭遇するけれど、そのシーンがとても綺麗だった。
多かった。靴もブーティーが好きなんだなって。足の形もあって、普通のハイヒールよりもああいう靴の方が合うのかも。
あとは、歌の先生とのシーンも良かった。聖フランシスコの言葉を使って言うのよね。
「“愛をくれ平和をくれ、あれをくれこれをくれ”とは言わない。“私を君の愛の動機に、私を君の平和の手段に“」
でもやっぱり理解して愛してくれる人がいる。オルランドは死んじゃったけど、凄く幸せな出逢いがあったのね。家族も全部捨てて、マリーナのところへ行ったのだものね。よっぽどの愛よ。そこは全部カットされているけれど、大変だったと思う。
彼女の性質に対しては色々とあったけれど、いがみ合いみたいなのはほとんど出てきませんもんね。
~今回の映画~
『ナチュラルウーマン』 2017年 チリ・アメリカ・ドイツ・スペイン
監督:セバスティアン・レリオ
出演:ダニエラ・ヴェガ/フランシスコ・レジェス/アリン・クーペンヘイム/ルイス・ニェッコ/ニコラス・サヴェドラ
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