■■個人と世界■■
2016/06/28
「私は私だけの生を紡いでいく。
全世界を覆うこのペシミズム、この沈潜に関わることを、断固拒否する。
目には目隠しを、耳には耳栓をする。
殺されるのなら、踊りながら殺される。」
アナイス・ニン1934年8月10日の日記から。
「社会恐慌がもたらした変化と混乱が個人の生活を揺さぶり、破壊する。人々は不安に慄いている。私も例外ではない」
そして、そのあとに「私だけの生」「踊りながら殺される」が続く。
非個人を拒否して、個人に徹しようというこの姿勢は、いまのような社会状況ではけっして広く支持されない。
生活の場が都会に変わってひと月が経って、もうどうしようもない天災への不安と人災への不安、個人の生活への不安が、どっと押し寄せてくる夜をいくつも過ごして、そんななかでアナイスの「私だけの生」「踊りながら殺される」のくだりがずっと胸にあった。
けれどそれを口にするエネルギーがなく、自分のなかでかかえこんで来たけれど、昨夜、眠れぬ夜を過ごしていて、でも、と思った。
すべてのことは、個々の内面の活動から生まれるのだから、やはり、アナイスのこの精神の活動は、非難されるべきことではない。
むしろサガンも忌み嫌ったマス・ヒステリアへの厳しい否定がみてとれる。
そういう意味では、「私だけの生」「踊りながら殺される」が胸にずっとあることと、昨日の記事「美しき命のために」は、確実につながっている。
自分のことで精一杯で、涙のなかでなんにもできないでいるけれど、そんななかで与えられた、社会に少しでも関われる機会を、なんとか活かしたかった。
そうして、愛をつよく感じられる瞬間だけを選んで言葉と向き合って「美しき命のために」を創った。
はじめて文章以外のものをデザインすることもしてみた。
チャリティという耳ざわりのよい言葉は苦手だけれど、そんなことを言っているときではない。ささやかな、消え入るほどに小さな存在ではあるけれど、自分にできることのひとつとして、すべきことなのだと思えた。