■■これ以上、その人間に何を要求するだろうか■■
2016/06/28
人生論というものに偏見をもっているので、その手の本はほとんど読まない。
けれど、第一弾として運び出した蔵書のなかに五木寛之の『生きるヒント』を入れたのは、作家中田耕治が五木寛之論を書いていること、最近おふたりの対談をDVDで観る機会があり再び五木寛之という作家に興味をもったこと、そして私自身がすがるようにして「生きるヒント」を知りたかったからだ。
五木寛之の小説も、一時期は夢中で読んだ。
彼はサガンと対談もしている。好きな作家から伸びた枝葉は好きな作家につながってゆく。
昨夜はまたよく眠れなくて、とちゅう眠るのをあきらめて、『生きるヒント』を手にとった。
読むのは二度目。
一度目はいつ読んだのだろう、忘れてしまった。17年くらい前に出版されたもので、五木寛之が60歳くらいのときに書いたものだ。
はじめて読む本のように読んだ。私自身の内部にあるものとよく似ている色彩を何度も発見しながら、読んだ。
そうして12章で構成されている終章で落涙。
彼は自分が「人生論」を書かない理由として「人生には希望はない、目的もない」と考えているからで、「そんな人生論が売れるはずがないから」なのだと言っている。
そして本屋で「積極的に生きていこう」といったハウトゥーめいた人生論がずらりと並んでいるのを見ると「あまりいい気持ちがしません」と言っている。
彼自身がもし人生論を書くとするならば、「読む人を力づけようとか、励まそうとか、あるいは読んでよかったというふうに希望を与えようとか、そういうことは一切ぬきにして、あるがままの、人生ってどんなものだろう、それでも自分が生きているのはなぜだろう、ということを自分自身で考えてみたい」と言う。
この言葉に私は信用という想いを寄せる。
人生に希望はない、と言う作家のエッセイのラストは圧巻だ。
10歳で亡くなった子も10年という年月、「与えられた生命というものを必死で戦って生きたひとりの戦士」であるという思想に立ち、
あなたが20年、30年と、もっと長い年月を生きているのだとしたら、
「本当にがんばって生きてきただけで、これだけの重さを背負いながら、これだけの不条理をはね返しながら、いろいろな人生の変換の中でいま生きているというだけで、ものすごく価値のあるもの」だと言う。
「人間は泣きながら生まれてきて、重い重い宿命を背負いながら、それをはね返し、はね返し、生きている。これ以上、その人間に何を要求するだろうか」
「いまはただ、生きて、こうして暮らしていることだけでも、自分を認めてやろうではないか」
「そこから、本当に希望のある、前向きな人生観が生まれてくるのではないでしょうか」
私もそう思う。
そして、こういったことを文章で表現するまでの作家の内面の、精神の、活動に想いを寄せる。
葛藤、孤独、おそれ、絶望、涙、叫び、死を想うこと。
私ならそれらの重圧を、日常にときおりきらめく、ささやかなよろこびで、なんとかはねのけて生きている。
おいしく栄養あるものを食べて欲しいという想いをこめて作ったお弁当を「おいしかったよ」と言われること、明るい表情で「大好き!」と言われること言えること、幸福そうなまなざしに出逢えること。
自分は必要とされている、と感じられる瞬間……。
そうしてあるとき、内面の活動が肉体のエネルギーとむすびついて、書くという行為につながる。
ほんとうに、肉体を養い、心を守るには、たいへんなエネルギーが必要なのだ、とつくづく思う。
とくに人生を考えようなどという本を書こうと思ったら、それに必要なエネルギーは、はかりしれない。
私が肉体的にも精神的にも、もっともきつかった本は『うっかり人生がすぎてしまいそうなあなたへ』だったのもその理由による。
東京に空が無い、と高村光太郎の愛妻智恵子は言ったけれど、私は東京には空気の粒子がない、と思う。
ときどき息苦しくなるのはそのためだろう。
それでも、ベランダから見られる緑は今日もこんなに美しい。