ブログ「言葉美術館」

■デイト・レイプと懐かしい映像と浴衣と

 

 いま書いている原稿の資料として、カミール・パーリアの『セックス、アート、アメリカンカルチャー』を読んでいる。原稿のことがなければ手にしなかったであろう本。パーリアは過激でユニークなフェミニストとして知られている。

 一九九一年に発表した「レイプと現代の性戦(セックス・ウォー)」がフェミニストたちの間に議論を巻き起こした、そのあたりを興味深く読んだ。

 あえてフェミニズムと距離を置いてきた私でさえ、「デイト・レイプ」という言葉は知っていた。

 これは親密な男女間で女性の合意なしにセックスを強要された場合それはレイプとなるかどうか、という問題。大多数のフェミニストは「ノーはノー」という立場だったけれど、パーリアは違う。

 「ノー」もなにも関係ない。「セックスの熱に浮かされているときにどんな言葉を口走るか誰もが知っているはず」。

 セックスを始めてから女のほうが「最後までは嫌」と言いだして、それでも男が無理やりした場合についても次の通り。

 それをレイプだと言うような女は「大人としての責任も、セックスにともなうリスクも理解していない。自分で対処できないなら家にいればいい」。

 女が酔って抵抗できなかった場合もこれ。

「女が酔っていたら彼女も共犯。飲酒運転で通行人をはねて、そんなつもりはなかったといって泣いたところで誰も許さないでしょう?」

 たしかに、これって議論を呼ぶでしょうね。

 私自身、いままでにずいぶん、似たようなことで嫌な思いもしてきた。それは男の性というものを理解していなかったし、侮っていたから、してしまった経験だった、と思っている。

 誰も信じないかもしれないけど男性恐怖症時代もあった。

 そうだった、だから小学生の娘に、あののどかな小諸懐古園の近くの道場で合気道を習わせたのだ。いざというとき、自衛できるようにと。

 パーリアは男と女の性差というものを、もっと人は学ばなければならない、と言う。

「レイプを理解するには過去を学ぶべき。性的な調和など過去にもなかったし将来もない。女は自分のセクシュアリティに自分で責任をもて」と。

 そして「デイト・レイプの唯一の解決は、女が自覚をもち、行動を自分で律することである」。

 私、はーい、と心の中で気のない返事をしたあとで思ったことは、でも、私がいまたとえば、デイト・レイプされました、と言ったとしたら、おまえが襲ったんだろ、とかなるんだろうなあ、ということでした。しゅん。

 自虐に走っている場合ではない。明日も仕事を進めたい。もう遅い時間だし、と仕事部屋を出て上階にあがった。

 ロシアから帰国している姪が泊まりに来ていて、でもすでに寝る準備もして「おやすみー」も言ったから、姪も、そして娘も眠っていると思ったら違っていた。

 ふたりでビデオを視ていた。それはみんなで軽井沢にいたころ、娘が四年生のときに軽井沢の大賀ホールで上演された「赤毛のアン」の舞台のビデオだった。娘が主役のアンを演じ、歌い、踊っている。姪も友人役として出演している。

「かわいー。なつかしー。」と言いながらそれをふたりで楽しんでいた。

「もう寝ようと思ったのに見ちゃうじゃないのよ」と言いながら私も参加。なつかしく愛しい想いで胸いっぱいになりながら画面の小学生のふたりの姿を見ていた。

 翌朝、「浴衣を着て浅草に行く」という、私の人生にはぜったいにあり得ないプランのため、「浴衣の着方」の動画を見ながら悪戦苦闘しているふたりに「がんばってー」と声をかけて、階下の仕事場に降りた。

 デスクに向かったとたん、前夜のパーリアのレイプについてのあれこれが、突然、からだぜんたいを覆った。

 涙があふれた。19歳と21歳のふたりの姿に、彼女たちにはぜったい嫌な思いをさせたくない、と強く思った。レイプの「定義」なんてどうでもよかった。とにかく、彼女たちが悲しんだりふかく傷ついたりするようなことはぜったいに嫌だ、と思った。

 そのために私にできることはなんだろう、そもそもあるのだろうか。

 娘が初潮を迎えたときには、自分の体に自覚をもてと、赤ちゃんができる体になったこと、望まない妊娠をしないために必要なことを話した。うっとうしいだろうな、と思いつつも、話した。

 もしかしたら、性に関することで傷つくことが少ないように、私が知っていることを話すことくらいは、してもいいのかもしれないな。

 ほかのことは何も教えられないどころか、「どうぞ反面教師にしてください、たぶん私の存在理由はそこにあるので」、これでずっときているけれど、今回、私が強く感じた分野こそ、私が伝えられる数少ないことのひとつなのかもしれない。

 浴衣を着たふたりが仕事場に降りてきて、「どう?」と浴衣姿を披露する。かわいい、インスタにアップしていい? え? ママのインスタに? あり得ないでしょ、でもいいよー。そんな会話をしながら写真を撮った。かわいいかわいい、とあれこれとポーズを指示しいつまでも撮影をやめない私に、ふたりは、こういうの親ばかっていうんじゃない? と笑う。たまにはいいじゃないの、と私は写真を撮り続ける。

 季節外れの浴衣だからさ、きっと女子高生がすぐに携帯でチェックするんじゃない? 「祭り、東京」とかで検索するんじゃない? お祭りじゃないのにねー、うしし……とふたりはイヂの悪い笑みを浮かべながら「いってきまーす」と出かけたのでありました。

 写真は、ポーズを決めた多くのなかから選んだ一枚。私は撮られていることを意識していない、こういう写真が好き。

 仕事に戻ろう。長いプチスランプからとつぜん抜け出してものすごいスピードで原稿が進んでいる。私のなかでは、もうほとんどミラクル。日本を離れるまであと4日。どうか私、あと4日間、この感覚のなかにいてください、とほとんど自分に懇願。原稿を編集者さんに渡してから飛行機に乗りたいよ。

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