◾︎愛しいひとたちと朗読とピアノ
昨夜は女性ばかり5名の食事会に参加した。グランドピアノがある美しいレストランだった。
ちょっと早い時間に訪れ、私のマネージメントをしてくださっているお友だちと打ち合わせをした。
自作朗読とピアノのコンサートを定期的に開催したいね、と、そんなお話をした。
昨年はタンゴとかあれこれに溺れ、ええ、もちろん次作の原稿にも悪戦苦闘していたけれど、「語りと歌のコンサート」は一度も開催しなかった。それどころか、路子サロンでさえ。
今年はちょっと違った色彩の年にしたかった。タンゴとあれこれにはあいかわらず溺れながらも、私の精神活動を朗読といったスタイルで表現することをしたいなと。
それで、好きなピアニストの方に昨年末から連絡をしていた。
人生はほんとうに面白い、と思った。
先日、まったく違う方向から、ピアノのリサイタルに合わせての朗読を、というお誘いをいただいたからだ。
そんなことも合わせて、昨夜の打ち合わせもあり、神経が昂ぶっていたのか、数時間で目が覚めてしまった。
今日は大切な打ち合わせがあるから頭をクリアにしておきたいんだけどな。
再び眠ろうとしたけれどだめなので、起き出して、大好きなお友だちが送ってくれた詩の原稿を読み始めた。美しく繊細な、それでいて愛に満ちた詩の世界にますます頭が冴えてしまった。午前4時過ぎ。
昨夜の食事会。
本来女性だけの会は苦手なのだけど、好きな人たちばかりだから参加させていただいた。
仕事の種類もそれぞれなのだけど、みんな自らの人生と真正面から向き合っていて、その姿に心うたれた。
なんとなく生きている、ぼんやり感がまったくなかった。ひりひりするくらいに。
私は彼女たちを愛しいと思った。
問題が起こったとき、誰かのせいにしない、というその姿に共鳴しながら。
食事会の前のおやつタイムには、年下のお友だちがブルーモーメントにいらした。その彼女も人生と格闘していた。「幸せになりたい」というのとは違う。自分がもっとも輝ける、好きな自分でいられるものは何か、いま何をすべきなのか。そのようなことを話したくて私をもとめてくれた。「無性に会いたいです」というメールの言葉にはじーんとしてしまった。
私は私が体験してきたこと、感じることをぼそぼそっと話すことしかできなかったけれど、彼女は帰り際、少し晴れやかな感じになった、って言ってくれた。
彼女のことはとても近くに感じているから、私は彼女のこころからの笑顔を見ていたいと願う。
彼女が来る前には、親友と実に2ヶ月ぶりくらいに電話で話した。人生最大の苦しみにあって言葉を発することもできなかった、という彼女の声を聞けて、暗闇からようやく抜け出しつつあるって聞いて、肩がふわりと軽くなった。
ひとは孤独。とっくにそんなのは体感している、どころか、からだのすみずみにまでしみこんでいる。
それでも、やはりひとりでは生きてゆけない。
そんなことをあらためて感じた1日だった。
たった1ヶ月、という期間限定ではあるけど、ひとり暮らしが始まって2週間が経とうとしている。
確信したのは、私はひとりで暮らしてはいけない、ということ。
だんだん慣れてはくる。でも慣れたくない。
今日の打ち合わせで、新刊の原稿が私の手もとから離れる。
3月上旬に発売予定。年内にほとんど完成稿は送ってあった。「あとがき」以外は。「あとがき」は最後の最後、ぎりぎりのタイミングで書くって決めているから、それがここ2週間の課題だった。私にとって「あとがき」は、綴る言葉はもちろん、行間にも、その日そのときの私を記録するという場。
だから、言葉シリーズのような本の場合、本文とあとがきを書くときの、精神の姿勢みたいなものは違う。それこそ、なにかがおりてこないと書けないから、焦りもあった。
それも先週末、ようやく書けた。書けたときの、あの、なんともいえない感覚は、何度味わってもたまらない。
私はよくばりだから、それのもっと強いのを味わいたくて、新しい作品の構想を練り始めている。何年ぶりだろう、書けるような予感がする、って思えるこの感覚は。
いまはもうお祈りするみたいに思う。どうか、この感覚が続きますように、って。