ブログ「言葉美術館」

■「大河原健太郎」個展とカタルシス

 

 

 画家、大河原健太郎の個展に出かけた。

 3月2日から24日まで。六本木ヒルズ。

 忙しい毎日が続いていて、なかなか行けずにムズムズしていた。

 3月5日に BSフジで放映された「ブレイク前夜〜次世代の芸術家たち〜#152 大河原健太郎(Kentaro Okawara) を見て、胸が高鳴った。

(↑You Tubeで見られます。数分なので、ぜひ)

 

 彼の作品に出会ったのは、もう5年前。中目黒のギャラリーでの個展だった。そのときから惹かれた。

 そのころの私は、現代アーティストたちにほとんど興味がなかった。それはいまでも継続中なのだけれど、彼の作品には、そんな私を揺り動かす何かがあった。

 描きたい描きたい描きたい、描かずにはいられない、ってものすごい熱量を前に、私はひどく胸うたれていた。

 そんな現象が自分のなかに起こったこと、そのこと自体が嬉しくて、それから5年間、できる限り彼の個展には出かけるようにしてきた。

 そして先週の六本木ヒルズの個展。

 5年が経って、彼はますます自由にますます楽しそうにますます「稚性」に磨きをかけて、堂々と作品を発表していた。

 稚性とは、私がアーティストに必要な条件、って信じこんでる「稚さ(いわけなさ)」のことで、作家 矢代静一が使っていた言葉。

 個展会場で、私はまず、とまどって、それからそわそわとしてきて、しばらくして、ひとりでにんまりとしていた。

 そうとう気味が悪いことはわかっている。

 最初、彼の作品を前に私はモティーフに意味を求めたり、唐突にビヨーンって描かれている線に意味を求めたり、色彩の組み合わせに意味を求めたりしていた。

 けれど、彼の作品はそんな私のアプローチを笑っていた。そんなふうに見なくていいんだよ、ただ、見てくれればいいんだよ、ってやわらかに、陽気に笑っていた。

 私は自分の頭のなかに、何か優しい手が入ってきて、ぐちゃぐちゃ、ってかき回してくれているような感覚になった。

 ただ感じる。

 ってこと。

 私がいかに毎日、理屈、論理、ってものに縛られているのか、痛感していた。

 そりゃそうよ、物を書くってそれが必要だもん。

 自分に言い訳をしながらも、痛感していた。

 ゆっくりと、混乱気味に、それでも心たのしく、ひととおり会場を回った頃には、泣きたい気持ちになっていた。

 こういう時間、こういう要素が、私の人生にも、そして芸術活動にも必要なんだ、って、そう強く感じたから。

 

 画集を購入、サインをしてもらって、それから創作というものについて、あれこれをお話をして、帰宅した。

 帰宅途中の電車のなかでも、やはり彼は真のアーティストなんだ、って、ちょっとしたジェラシーのなか、確信した。ほとんど天才なんだけど、天才っていうと軽いからね。

 私は詩人の茨木のり子の言葉を思い出していたのだ。

 彼女は言う。

「浄化作用(カタルシス)を与えてくれるか、くれないか、そこが芸術か否かの分れ目なのです。だから音楽でも美術でも演劇でも、私のきめ手はそれしかありません」

 私は彼の作品によって、確かにカタルシスを得ていた。

 *大河原健太郎個展、あともうちょっと(24日まで!)で終了。入場無料、ミュージアムグッズ売り場にも、会場の外にも作品があります。
  もしアーティストが在廊していたならぜひ、声をかけてみてください。楽しい時間がもてると思います。

 ★個展の情報はこちらから

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