■■異邦人■■
2016/06/11
冬の日の夕刻、三軒茶屋のパブリックシアターに出かけた。ある方からお誘いいただいたのだけれど、お誘いの言葉に「行きます!」と即答したのは、さいきん、そういう匂いのものに飢えていたことと、原作がカミュの『異邦人』だったからだ。
私はお芝居というものについて語るほどのものをもっていない。
その「もの」とは、知識であり経験であり、好きだという情熱であり、それを人生の一部にしようという覚悟のことを言う。
だからここで内容については何も言わない。
ただ、やはり、自分だけの作品を創作し、それを表現したいというエネルギーに触れて、たいへんな力をもらったことだけは、ブログに書き残しておきたいな、と思った。
それから、一つの作品から人が受け取るものは、ひとそれぞれなのだ、という当たり前のことを強く感じたことも。
私は頭があまりよくないので、カミュの『異邦人』を好きなのに、たぶん、カミュが表現したかったことのほんの少ししか受けとれないでいるのだと思う。
不条理とか実存主義とか、ほんとによくわからない。
それでも『異邦人』で好きな箇所というものはあり、そこにはラインを引いている。
今回のお芝居ではそこがピックアップされていなかった。
ああ、ここをはずすのか、と思った。そして一つの作品から人が受け取るものは、ひとそれぞれ、と思ったわけだ。
私が好きな箇所のひとつ、ラスト。
「一切がはたされ、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。」
先日、バレンタインデーについての屁理屈を書いた。
少し遅れて優しいお友達からとても素敵なチョコレートをいただいた。嬉しかった。あんなブログ書いちゃったけど怒らないでね、いただくと嬉しいものなのね、理屈なんてどうでもいいや、と思っちゃうくらい。ハートを感じちゃうのね、と彼女に言った。
自分で自分をもてあますとき。