ブログ「言葉美術館」

■「メモワール写真家・古屋誠一との二〇年」小林紀晴■

2016/06/10

Dsc_0147久しぶりに美容院で長い時間を過ごした。

こで手にとった雑誌、フィガロだったかな、そこにお勧めの本のコーナーがあって、「ああ、これは、そろそろ読まなきゃいけない本だ」と思った。そしてその足で書店によって、購入して帰宅した。

 

日曜日、体調が悪くどこにも出かけられなかったから、この本を読んだ。

そしていま、後悔しているようないないような、まだまとまらないんだけど、でも、ずっとこの本の内容のことを考えているのだから、読んでよかったのだと思うようにしよう。

 

「メモワール 写真家・古屋誠一との二〇年」小林紀晴著

 

古屋誠一の妻クリスティーネは精神を病んだ末、マンションの屋上から飛び降り自殺した。

夫婦の間には幼い息子がいた。古屋誠一は妻と知り合ってからすぐに妻を撮り始めた。日常的に撮った。精神を病んでいく過程も、妻の最期も撮った。

妻が飛び降りた地点から地上の妻のなきがらにむけてシャッターを切った。

いったん、自室にカメラをとりに行き、写真を撮って、それから地上に降りた。

この写真家に強い興味を抱いた写真家小林紀晴が、古屋誠一に徹底的に固執して彼の人生、写真を撮るということ、妻の最期をなぜ撮ったのか、なぜ? という根源的な問い、そういうものを描きだしている、

半端な気持ちじゃあ読めない本だ。

 

途中、荒木経惟へのインタビューが興味深かった。荒木経惟、アラーキーも妻の陽子さんを日常的に撮り、自殺ではなく病死だけれど、早くに失っている。死に顔も撮っている。私は一時期このふたりの関係に病的なほどにのめりこんだことがある。

アラーキーは、古屋誠一に対して、「お前は愛が足らないんだよ」と、直接言ったことがあるという。なんだか、この言葉に、すべてが集約されているように思う。

それから写真評論家飯沢耕太郎の言葉。「クリスティーネの圧倒的な美しさ」「狂気の女性が持っている異様な美しさ」。

 

古屋誠一の、写真家としてよい作品を創りたいという欲望が、この言葉からにじみでているようで、醜いものを見たあとのような嫌なかんじがした。

 

震災の後、被災地に向かった写真家、向かわなかった写真家、そのあたりのことについても言及してあって、これはとても興味深かった。

 

著者の小林紀晴はスーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』に影響をうけていて、いくつか引用されている。

***

第六章にはプラトンの『国家』からの引用で、レオンティオスという男のことに触れている。男は処刑された死体が地面に横たわっていることを知り、近くに言ってもっと見てみたいと思う。同時に引き返そうともする。目を蔽い、しばらく迷う。やがて欲望が勝る。死体に近づき、目を見開き声にする

さあ来たぞ。お前たち呪われた眼よ。この美しい光景を思いきり楽しめ

 

この眼を被災地に向かった写真家、そして行きたい欲求を抑えるのに苦労した私ももっているはずだ。


<呪われた眼>を持った写真家たちよ、<この美しい光景を思いきり楽しめ>と、耳を澄ませば心の奥底から声が聞えてくる。


だからこそ、写真家の多くがモラルや倫理について熱心に語り、心揺らしているのではないだろうか。

***

 

ラスト、病的なほどに執拗に何度も何度も編みなおしてずっと妻の写真を発表し続けている古屋誠一を、著者小林紀晴は、肯定して終わる。

肯定しないでは、自分自身、すくわれなかったのだろうな、と私は思った。

 

そしてところどころで紹介されるクリスティーネの手記に、私にも経験のある葛藤や苦しみがあらわれていたから、息苦しくなった。


けれど、私は生きているしクリスティーネは死んだ。


私は最期を写真に撮ってほしいかな。そのときが来て、そばにいる人は誰かな。自死以外だったらたぶん、安堵していると思うから撮って欲しいかな。携帯のじゃ嫌だけどね。

よく眠れず、うなされるし、何度も目を覚ますし、さんざんな月曜日の朝。こういう本、まだ少し早かったのかもしれない。

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