■誰に向かって作品を書くのか■
2016/06/02
ネットで行われているあらゆることを私は恐れている。
だからフェイスブックもツイッターもしないし、このブログもコメントを受け付けないようにしているし、私自身について書かれたものは、極力見ないように心がけている。
もちろん、なかには、勇気づけられるものもあるけれども、それは稀なので、そんな私を知っている知人が、「私が見て気持ちがよくなるもの」だけを探してリンクを送ってくださっていた。
さいきん、その人が体調を崩されて、情報がなくなった。(どなたか奇特な方へ。こういう情報、ほしい……)
そんななか、今週のはじめに、うっかりとミスを冒してしまった。
とあるキーワードで調べものをしていたら、私の名前と「美男子美術館」が出てきて、つい、覗いてしまった。
そこには山口路子は小説なんてほとんど出していないのに自称「作家」、書かれていた。
……作家です。こつこつと文章をつむいで、私自身の世界観を大切に大切にしながら作品を作っています。
その題材が恋愛であれ、誰か特定の人の人生であれ、絵画であれ、すべて私の人生における精神的な作業です。
命をかけていると言ってもいい。だから作家です。
さいきん小説を発表していないので小説家とは言っていません。
エッセイストという響きのもつ華やかなかんじにもなじめないし、コラムニストとは明らかに違うように思うから、もっとも自分がおちつくところで「作家」としているだけです。
ものを作り出す人、作家。間違ってはいないでしょう。
ちなみに普段、人と話すときに職業を聞かれると「ものかき」です、と言っています……
こんなふうに心のなかでつぶやいてから、ひどく腹が立って、珍しく強い怒りの感情が沸いてきた。
いつもはこの程度のことなら無視できるのに、いろんな状況がからんでいたのだろう、、怒りついでに勢いで、アマゾンの自分の本についてのレビューを見てみる気になった。
そうしたら、ひどいのがいくつかあって、それが絵画に関する本だったので、絵画に関する本を読む人=私のような書き方をする人が嫌い、という公式が成り立つのではないかとさえ思った。
レビューとは言えない、それは悪意の数行だったけれど。
ひどく落ちこんで、作品を発表するのが怖くなった。この感覚は初めてではないんだけれど。
それで、いったんは流そうと努力したものの、できなくて、いくつかのキーワードを入れて、同じような想いをしている作家の人たちを探した。
やはり同じような想いを抱いている人は当然いて、実際、闘っている人もいらした。
そんななか、胸に響いて、私をすくってくれたのが、小池一夫さんが書かれた記事。
***
ネットの匿名掲示板を作家は見ない方がいいとツィートしたら、批判も受けとめての創作ではないかと反論が来たのだが、僕はそう思わない。
元来、表現者は感受性が豊かだし、その匿名性を利用し、それを発言することで何も失う物が無い者達の礼儀無視の罵詈雑言に心乱れない者など何処にもいない。
中には有益な意見もあるが、それを見付ける為に、悪意の深淵を覗き込む事はない。
作家は、批評を受け入れる事も重要だが、それは、批評する人間としてスジを通したものだけで充分である。
「誰に向かって作品を書くのか」
創作者はそこだけは絶対にブレてはいけない。
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泣きました。
そうです。「誰に向かって作品を書くのか」。
そこは絶対にブレてはいけないよ、私。
そして、「悪意の深淵を覗き込む事はない」。
それでもあまりにも動揺が続いているので、生れてはじめて、ヨガを体験してきた。
一番最初、仰向けになって目を閉じて、自分と向き合いましょう、いろんな悩み、考えなくてはいけないこと、それをいまは、少し離れたところに置いておきましょう……みたいな時間があるのだけど、その段階でほろほろと涙がこぼれて両の耳をぬらす状態の自分はやはりピンチなんだな、なんて思った。
それでも、じつに久々に身体を動かしたらすこし、楽な気持ちになれた。
そうしてようやく今朝、こうして、内面的事件を書くことができている。
写真は部屋に飾ってある妖精たち。娘が小学校4年生のときに私のマッサージというバイトでためたお金で、長い時間をかけて一人ずつ、買った妖精。
目を閉じてすこし微笑んでいる。
見ないでいることも大事。見ないでいるから微笑むことが可能だということもある。そんなふうに思う。
私は、私なりの精一杯でこれからも書いてゆくのだろう。
けれど、どんな場であれ、自分の立場を明らかにせずに誰かを批判するようなことは絶対に書かない。
卑怯な人。これは私がもっともなりたくない人だから。