■暗闇のなかのひとすじの光■
2016/06/09
12月から1月にかけてのシーズンが一年のうちでもっとも嫌いになったのは、いつ頃だったのか。
とても幼いころのような気もする。
クリスマスとか年末年始が楽しかった記憶がほとんどない。
非日常であり、決まりごと、すべきことがたくさんあってそれに心身を合わせるのがつらかったようなそんな記憶のほうが、はるかに多い。
だからいつもこのシーズンは沈みこむ。
けれど今回は今までの人生のなかでもトップ3(ワースト?)に入るだろう、そんなシーズンを過ごした。
気づけばこころのなかで、「訴え」を繰り返している。
自分の主張を、繰り返している。
けれどそれは吐きだすことが許されないから飲みこむ。
いいえ、許されないからではなく、醜すぎて自分が許せないから誰の目にもふれないように飲みむのかもしれない。
飲みこみすぎれば体調を崩す。
とうぜん、頭にだって心にだってよいわけがない。
私はずっと、ひとりきりで年末年始を過ごしている人は、どのくらいの割合でいるのだろう、そしてそのなかで、ひとりきりでいることに安堵している人、寂しさを感じている人はどのくらいいるのだろう……そんなことを考えていた。
昨夕、期日の迫っている仕事を少しして、それから数日前に買ってあった『人間の運命』を読んだ。
この本を見かけた娘が言っていた。
「また、重いタイトルの本だね。もっと、軽いのも読んでみたら? この間プレゼントした『ガミガミ女とスーダラ男』とか。ママが読む本はみんな重たい」
人間の運命。
たしかに軽くはないタイトルだわ……。
それでも、もともと五木寛之が好きなこともあり、そして本の内容からしても、とても共鳴できた。
いま読むべき本だったんだなあ、と思えた。
だって、この本のおかげで、ようやくこうして、大切にしているブログに新しい文章を書こうという気になっている。エナジーがすこしわいてきたかんじ。
『人間の運命』、ノートに書き写した箇所はいくつかあるけれど、そのなかでも、「え! うそ! しょっく!」とこころのなかで絶望的な悲鳴をあげてしまったところはここ。
五木寛之は、宗教とか運命とかいった言葉に抵抗を覚えるけれど、それでもこころのどこかで宗教的なものをちらりと求めていたり、運命について考えなかった日は、一日としてなかった、と言う。その理由はこれ。
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それは自分自身のなかの、意識と無意識のふかいところに、なにか不安なものをかかえこんでいるからだろうと思う。
心のバランスがくずれ、いつも自分が安定していない感じがする。
ときにはそれが、えたいのしれない鬱状態としてあらわれたり、体調に影響したりもする。***
五木寛之は、少年のころからずっとそうだったんだって。それで、こんなふうに言う。
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年齢をかさねるごとに人は生きることの意味を理解し、覚悟がさだまってくるという。
それは嘘だ。
年をとると、心も体もさらに不安定になってくるものである。
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ここで私は絶望的悲鳴をあげたのでした。
これからもっと不安定になるわけ? かんべんしてよ、と。
これを書いたとき、彼は77歳くらい。わあ……。
彼は、なかなか眠りにつけず、午前六時ごろに睡眠導入剤をのんでベッドに入る。体を動かすことがおっくうでならなかったり、人に対して高圧的になったりもする。
すべては心の不安が原因だ。それで、じゃあ、いま、何が欲しいのかといえば、
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自分の心の不安やおそれは、そのままでいい。それを治療してほしいわけではない。心に厄介な重荷をかかえながら、心身に苦痛をおぼえつつ、それでもそれにおしつぶされずに毎日を生きていくことのできるエネルギーを求めているのである。
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そのエネルギーを彼は「闇を照らす光」と言っている。
ああ、私とおんなじだ。
暗闇を照らすひとすじの光。それを私も、いつも探している。しばしば見えなくなるから。
いつも安定しているなんて無理だ。いつも穏やかでいるのも無理だ。不安定が普通だから、それを受けいれて、そのうえで、ひとすじの光を見失わないようにするしかない。
見えなくなっちゃったら、それを探すことを、そのときの仕事とすればいい。そんなふうに思う。
けっして暗いとは思わないし、暗いのではない。それが人生なんだなあ、たぶん。
それにしてもね、指一本動かすのもできないような状態のときは、ほんとうにしんどいけれど、そんなときは、無理に動かさないで、動くようになるときを待つしかない。
そんな状態は異常なのではなく、自分自身の一部なんだから。