▽映画 ブログ「言葉美術館」

■今年はじめての映画「燃ゆる女の肖像」

2021/02/09

 

 

 今年はじめて観た映画が『燃ゆる女の肖像』であった自分を褒めてあげたい。一緒に行った「りきマルソー」こと、りきちゃんに、意味不明に自慢っぽく断言するほどの映画だった。

 前評判がかなり良いのは、いろんなところで目にしてしまっていて知っていたけれど、映画はなるべく前情報なしで観るようにしているので、観る前の知識としては、カンヌ映画祭に激震が走ったらしい、ドラン監督が絶賛しているらしい、女性の監督で女性同士の愛が描かれているらしい、肖像画を描くということがひとつのテーマらしい、そのくらいだった。これでも充分多いと思うけれど。

 内容については公式サイトにあるし、どこまでがいわゆるネタバレになるのかわからないから、書かないけれど、その日の映画館、エンドロールで立つ人がひとりもいなかった。私は映画館が明るくなるのを待たないで立ち去る人を、ほかの人の余韻を台無しにするという無神経さゆえ嫌っているのだけれど、この映画は、エンドロールで立つことを不可能にするほどのものがあったのだと思う。

 ラストシーンの衝撃からエンドロールへの余韻が完璧だった。

 

 しずかな、しずかな映画だった。

 静謐な、という表現がぴったりくるような。

 ドレスとドレスがふれ合う音、絵筆がキャンバスを走る音、クロッキーの音、そんなのが鮮やかに耳に入ってくる。そう、波しぶきの、空に踊ったかけらが岩に落ちる音まで聞こえてくるような。

 音楽はふたつ(ピアノのシーン入れればみっつ、かな)の場面でしか使われない。そしてその音楽と映像が、これぞ芸術、と言いたいほどにすばらしくて圧倒された。

 

 見つめる、見る。

 これが映画を貫いている。

 さいきんの私の重要なテーマでもある。

 画家は肖像画を描くとき、対象を見なければならない。観察しなければならない。けれどモデル側もまた、描かれているときに画家を観ている、観察している。

 この映画でもっとも印象的だったのは、ふたりの女性の視線。いつしか私の目が、ふたりの女性それぞれの目に重なり、相手をじっと見ていた。最後までそうだった。

 オルフェの神話がモチーフとして使われていて、いくつかのシーン、ふたりの女の心情はどんなだったかを考えさえる。

 そして、なにより、「ひとを愛する」ことについて、考えずにはいられない。

 

 映画が終わり、りきちゃんと食事しながら、おもにラストシーンの解釈についておしゃべりをして帰宅途中、そして帰宅してからパンフレット(りきちゃんが買ったのを写真で撮らせてもらった、いつもそう、ありがと)を読んだ。監督、女優へのインタビュー。そしていくにんかの映画評を。

 秦早穂子さんのがすばらしかった。タイトルは「振り向かない女(ひと)」。

 やはり、それこそ見るところが違う。知識の質、量が違う。なにより文章が、すごい。彼女の映画評もまた、私には衝撃だった。こんなすごい人を相手に映画のトークをしたことがあるなんて信じられない、と思うほどに。

 そしてさいきん読んだあるベストセラーを思い出した。そこで述べられている意見そのものには共感するところが多いのだが感動がない。物足りない。飛ばし読みをしてしまう。私がひねくれているのかな、と思っていたけれど、それは違った。

 秦早穂子さんの映画評を読んでわかった。

 私はやはり、文章が美しくないとだめだし、文章表現のなかに、何か言われたときの逃げ道みたいなのが用意されているのを感じ取ってしまうと、それがある一定の量を超えてしまうと、だめなのだ。

 

 セリーヌ・シアマ監督のインタビューも興味深かった。

 彼女が18世紀の女性画家をあつかう映画を作るにあたって女性画家たちのことを調べたと知って、私も同じテーマに夢中になっていた時代があったことを思い出した。

 路子倶楽部会員限定の次のコンテンツは、女性画家の、あの連載にしよう、と決めた。

 

 映画の最初の海のシーン、その後の浜辺のシーンで私は、私にとって重要な映画のひとつである『ピアノ・レッスン』(1993)を思い出していた。ジェーン・カンピオン監督の。映画のパンフレットを読んで、それは私だけではなく多くの人が感じていたことがわかった。ジェーン・カンピオンはカンヌでパルムドールをとった唯一の女性の映画監督。オマージュもあったのかもしれない、と想像する。

 

 これを書いているのは映画を観た翌朝。ベッドの上でMacBookに向かっている。

 今日は次の本のゲラを返さなければいけないぎりぎりの日だから、目覚ましかけて早く起きたのに、なのに、あたまのなかを映画のシーンが占拠してしまっていてだめだから、書いている。

 ヴィヴァルディの四季、夏の第3楽章をリピートしながら。

 なんという激情、危険な「夏」。

 たしかにあのシーンにぴったりだ。

 人生の夏。夏の終わりを惜しみ、たぎる熱。

 

 私は人生のいつかな。晩秋かな。初冬かな。

 そんなことを考えながら思うのは、たくさんの映画を昨年の終わりころに家でひとりで観て、このブログに書こうと思ったけど書かなかったのは、書く気力の喪失というよりもやはり、そこまでの映画ではなかったということなんだ、ということ。

 『燃ゆる女の肖像』にはたしかにカタルシスがあった。芸術の力を肌が感じた、そんな映画だった。 

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