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■『シンプルな情熱』を観て、ぐるぐる考えたこと

 

 

 数日前に『シンプルな情熱』を観てきた。Bunkamuraル・シネマ。

 アニー・エルノーの小説『シンプルな情熱』は1992年にフランスで出版されたとたんベストセラーになった。日本では1993年に刊行、私はかなり遅れて2002年の文庫版ではじめて知った。でも、それだってもう20年も前のことだ。

 すでに文壇で名のある女性作家が実体験に基づいた、妻のいる年下の男性との関係を書いた、ということで良くも悪くも注目されたこと。アニー・エルノーの著作活動のなかで『シンプルな情熱』はどう位置づけられるか、といったことは、小説を読んだあとで知ったことだ。

 『シンプルな情熱』を読んだときの感想は、それほどの感動はなく、でも、誰かに夢中になると、すべての物事がそのひとに結びつき、何をしていてもそのひとを思い、ふだんは気にならない星座占いを見たり、恋愛ソングばかり聴いたり、クレイジー状態になる、それが描かれていたから、他人事とは思えないなあ、と共感はした。

 でも、もしまったく同じ作品を、無名の人が出版したとして、ここまで話題になっただろうか、とも思った。

 

 ここに描かれているのは、恋というよりは情欲(肉体的な欲望)だな、と思ったこともよく覚えている。

 この小説で忘れられない一節があるとすれば、物語が始まる前の「まえがき」みたいなところのラスト。

 私には思えた。ものを書く行為は、まさにこれ、性行為のシーンから受けるこの感じ、この不安とこの驚愕、つまり、道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態へ向かうべきなのだろうと。

 

 私は物語の内容よりも、「ものを書く」ことに対するこの表現にもっとも感心したのだった。

 それでも、『シンプルな情熱』を私は手放すことなく持っていた。一年前の引っ越しで五分の三くらいの本を処分したのだが、この本は生き残っていた。何かがあったということだ。

 

 それで、『シンプルな情熱』が映画化される、と知ったとき、まず「なぜいま?」と思った。そしてあの世界をどんなふうに映像にするのだろう、という興味をいだいた。

 しばらくして男性役がダンサーのセルゲイ・ポルーニンだと知って意外に思った。さいきん彼のドキュメンタリー『ダンサー、セルゲイ・ポルーニン 世界一優雅な野獣』を観たばかりで、イメージが一致しなかったからだ。

 それで映画を観た。

 99分。こんなに長く感じた映画は久々だった。

 

 いま、目を閉じて映画を思い出そうとする。

 まず、セルゲイ・ポルーニンの裸。彼は全身タトゥーを入れていて、それは有名なのだが、映画では全身タトゥーのはいったオールヌードが、性交中の「シンプルな」動きとともに「堪能」できる。彼の体をなめまわすようなカメラ。なぜ、そこ。なぜ、そのタトゥーを。あ、また、なぜそこを執拗に映すかな。

 しょっぱなから私は「?」だった。

 ヒロインの愛人役。年下の外国人(外交官)。でも、もう、これではダンサーのセルゲイ・ポルーニン以外の誰でもない。

 性愛が終わるとさっさと帰ってゆく愛人(ポルーニン)。

 ぼんやりと彼を思うことで時間を過ごすヒロイン。

 歌詞入りの曲がかかる。セリフなし。ヒロインの心情を表現したいのだろうな、と思うけど、私は外国語ができない上に世界的に有名な曲に絶望的なほど無知なので、英語のもフランス語のも、まったく意味をなさない。歌詞の字幕がなかったから。一曲が長いなあ、と感じる。

 愛人(ポルーニン)から電話。性愛。セルゲイ・ポルーニンの裸。美しい体。タトゥー。シンプルな動き。なめるようなカメラ。

 真っ昼間の光のなか、からみあう肉体。動物の交尾を見ているようだ。あえてそうしているのだろうな。エロティシズムは、このシーンに不必要だと判断したのだろうな。私とは違うな、このあたりの感覚まるで違う。

 ふたたび。

 ぼんやりと彼を思うことで時間を過ごすヒロイン。歌詞入りの…(同上)

 これが繰り返される。

 欲望に溺れた人間がどんな状態になるのか、そして、そんな状態になってしまうのもまた人間というもので、人生の幾度かの時期は、そんなふうになるひとがいるのを知っているし、身に覚えがありません、と言うつもりもない。

 でも、「なぜ」は消えない。

 なぜ、映画ではヒロインの年齢を原作よりも(たぶん)10歳くらい下げたの? 原作では50歳直前の文学にたずさわる知的な女性だった。

 なぜ、キスがあんなに、つまらなそうなの? あえて、なのかな。下半身の結合に集中するため?

 なぜ、挿入シーンばかりなの? そしてシンプルなの? 愛撫皆無なの?

 なぜ、あんなに明るいなかでしかしないの? 好みの問題というだけ?

 そしてやはりなぜ、セルゲイ・ポルーニンのタトゥーはそのままなの? 役になりきるならタトゥーを特殊メイクでもなんでもいいから、とりあえず消して、のぞむべきでは?

 そして。

 監督は、30年前に発表されたベストセラーを使って何を表現したかったのだろう。

 

 原作と違う。原作のほうがずっといい。

 そんな映画もあるけれど、そればかりではない。たとえば『ヘンリー&ジューン』『存在の耐えられない軽さ』『ダメージ』なんかは、映画は映画で私は好きだ。

 だから、私が映画『シンプルな情熱』に、こんなに反応してしまうのは、原作と違うからではない。

 なんなんだろう。

 もやもや。

 もやもや。

 

 ここでお友だち登場。

 そう、私はこれをひとりで観たのではなく、お友だちと観ていたのでした。

 あえて「お友だち」としておきます。だれだか想像がつくでしょうけど。

 私は一緒に映画を観たお友だちに上記のことを、もやもや、もやもや、たまに憤りながら話して、「なんなんだろう」とため息をついた。

 そうしたらお友だちが言った。

「アイドル映画なんですよ」

 ……

 ああ! 霧が一瞬にして晴れ渡ってゆく。

 ああ。そうか。セルゲイ・ポルーニン好きの人にはたまらないでしょうね。完全に主役はポルーニンだったしね。そうかそうか。アイドル映画だと思えば納得がゆく。

 なるほど。アイドル映画ねえ。うまいこと言うわね、やるわね。

 と、ここはすっきりしたものの、一方で今度は騙された感が。私、ポルーニン・ファンじゃないもの。

 別の種類のもやもや。別の種類のもやもや。

 

 ということで監督のコメントを探した。

「シンプルな情熱 監督 インタビュー」で検索。いくつか出てくる。三つの記事を読んだ。

 ダニエル・アービット。1970年、レバノン生まれ、パリ育ち。

 うーん。たぶん、このひととは気が合わないのだろうなあ。

 だって、この映画で「恋の幸福感を描きたかった」とか「恋には年齢も性別も関係ない」とか「昼下がり情事にふけっても息子は母親が幸せなら息子も幸せ」とか、「これを観て恋をしたいな、と思ってほしい」とか、私には理解不能なことばかり言ってる。

 あの、彼のことしか考えられず、彼からの電話を待つだけの一方的な関係、でもあのひとときが欲しくてそのときをまちわびる。

 あのときのことを私は「恋の幸福感」なんて言えない。苦しかったよ。お腹痛くなったし、眠れないし、ほんとうに苦しかった。死ぬかと思ったわよ。

 たぶん、恋とか愛とか性愛にかんする基本的な考え方が、私、この監督とはすごく違うのだと思う。

 

 私にとっていまひとつだった映画については書かないことにしているのだけど、これだけのことを考えさせてくれて、私が好きなこと嫌いなことを明確にしてくれたということで、記しておこうと思った。

 レビューも検索したけれど、わりと高評価。セルゲイ・ポルーニンのことを書いている人も多かった(やはり)。

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