▽愛と哀しみのボレロ
『愛と哀しみのボレロ』を観たのは三度目くらいだけど、ずっしりとした重みがあって、それはおそらくこの映画にかける人々の想いが伝わってきたからだろう。
私がその人生のなかでふれることの芸術作品がどのくらいあるのか、日々それは周囲にあるだろうから莫大な数だろうけど、そのなかで自分の心が強く動かされるものというのは、結局のところ、それを制作した人の想いでしかないのだ、ということを最近は頻繁に感じるようになった。
たとえそれが、がむしゃらさだけが外に出たものであったとしても、表現技術は稚拙であっても、えらい人たちには「評価」されないとしても、そこにかける人の想いが強ければ、私はそれにふれられたことを幸運だと思う。
大好きな坂口安吾が色紙に書いていたという言葉。
「あちらこちら 命がけ」。
これなんだと思う。
「愛と哀しみのボレロ」の制作メンバーはとても豪華。
監督も脚本もクロード・ルルーシュ。
音楽がフランシス・レイとミシェル・ルグランで、最初と最後のボレロの振り付けがベジャール。
クロード・ルルーシュってこれが公開されたとき四十四歳。この年齢で、こんな映画が作れるものなんだ。
映画の冒頭に次の文章が映し出される。
「人生には二つか三つの物語しかない。しかしそれは何度も繰り返されるのだ。その度にはじめての時のような残酷さで。(ウイラ・キャザー)」
一人の人間の人生も同じ。
何度も同じ物語が繰り返される。
そのたびにはじめてのときのような残酷さで。
私は、どうして絶望はいつもこんなに新鮮なのだろうと思う。
「ああ、これはいつものあれだ、とか、……ああ、これは経験があるぞ」とか思えればいいのに。
希望を感じたり、たまらない幸福を感じたりするときはどうだろう。
いつも新鮮な感覚、とは違う。どこかなつかしい。もう会えないと思っていた好きな人に会えたときのような、そういう愛しい香りがあるなつかしさ。