▽ヴィオレット~ある作家の肖像
2017/02/08
昨年から私を支えてくれている、ずいぶん年下のお友達と岩波ホールで、「ヴィオレット~ある作家の肖像」を見た。
チラシには私を惹きつける言葉が並ぶ。
「1940年代、パリ。文学界に衝撃を与えた実在の女性作家ヴィオレット・ルデュック。彼女を支えつづけたボーヴォワールとの絆、そしてプロヴァンスの光の中に幸福を見いだすまでの魂の奇跡」
とか、
「書くことが、生きること」
とか。
映画は139分もあって、かなり長く感じた。
長く感じたということは、それほど惹きこまれなかったということで、それでもやはり、作家の伝記だから、じわじわと効いてきている。
「刺激を受けなければ」と、半ば強制的感覚で出かけた映画だった。
三年、四年という慢性的なスランプ状態を、このままほうっておくと、それはスランプではなく常態になってしまう。
ヴィオレットが生きた1907年~1972年って、私のアナイス・ニンとほぼ重なる。アナイスは1903年~1977年だから。
ふたりを比べることは無意味かもしれないけれど、ヴィオレットが文学史上はじめて「自分の生と性を赤裸々に書いた作家」とされていることに、私は思うことがある。
アナイスも、同時期に、未発表の、その時点では超個人的な日記に、自らの生と性を赤裸々に綴っていた。
違いは一つだけ。
それを発表したか、しなかったか、ということ。
アナイスが発表できなかった大きな理由としては、夫をはじめとする家族への気遣いがある。
ヴィオレットに、アナイスがもっていたためらいの理由はなかった。
よほどの神経の持ち主、あるいはすべてを捨てる覚悟(自己愛とか冷徹さとかも含む)がなければ、このためらいは作家にとって命とりになる。
作家という、自らをさらけ出してその反応を世に問い、お金をもらうというけっして上品ではない仕事をしていくうえで、ヴィオレットは好条件を備えていたと言っていい。
つまり、私生児として生まれ、母親に愛されていないという想いをかかえて育った彼女の人生に、ためらいとなる要素はなかった。
彼女は自分は恵まれていないと思っていたけれど、私から見れば、作家としては最高に恵まれた環境に生まれ育ったのだ。
それにしても、ヴィオレットの才能をほめたたえた人たちがすごすぎる。
ボーヴォワールに絶賛されたということはそんなにうらやましくないけど、カミュ、サルトル、ジュネ、コクトーに絶賛されたことは、よだれがでそう。
ヴィオレットの創作に命を与えたのがプロヴァンスだったということも興味深かった。
都会ではだめで、そこだったからこそ書けた。
そういう命の場所というのが存在するということ。自分の軽井沢での十年と重ねて涙が出るくらいに共鳴した。
ボーヴォワールがヴィオレットが成功したことに、「文学の美しい自己救済を見る」と言ったことも胸にしみたし、あとは、シンプルなセリフだけど、
「書くのよ 涙も叫びも 書くしかない」
「私は特別ではない。死ぬのは怖く生きるのもつらい。それでも生きていく。すべてを背負ったまま」
このあたりも好きだ。
観終わったあと、神保町のミロンガというタンゴ喫茶で、私はお友達といろんなことを話した。ミロンガのブレンド珈琲はここ数年の間(それ以前のことは覚えていないだけ)に飲んだ珈琲で一番美味しかった。あの珈琲を飲むためだけにも、ミロンガに行きたいくらい。
お友達は、彼は意識していなかったと思うけど、私をちくちくと刺激し続けた。
彼は私を刺激する決定的な要素をもっている。それは、私をひとりの芸術家として見ているということだ。
ヴィオレットとミロンガの珈琲とお友達との会話。帰りの電車のなかで、持ち歩いていた原稿を取り出して、その裏に筆圧強く書いた言葉は、「私は敗北感のなかで生きるのか!!」。