▽追憶と、踊りながら
「聞いてくれる?
私は学んだの。
いつも幸福でなくても満足することを。
孤独な人生にだって、いつかはきっと慣れる。
でも私はこうして生きている。
もう何もなくても、たとえ行く場所がなくても。
……
忘れていた傷が突然疼くようで怖くなる。
それが孤独。
それでもこう言うでしょ。
今日と違う明日は来る。
私は人生を続けてゆく」
夫に先立たれ、最愛の息子を失ったばかりの初老の女性がたんたんと語る、ラストシーン。
彼女を訪ねる息子の同性の恋人、コミュニケーションの困難さの象徴として、ふたりの間に立ちふさがるのが言葉の壁。
「この映画、おすすめですか?」と聞かれたら、「うーん。そうでもない」と答える。けれど、「生きるちから」みたいなものの、ほんものを観たかったら、すすめる。
人はすっごく大切なものを喪っても、それでも、生き続けられるものなんだ。
そんなことと、あとはなぜか、
歴史に名を残すようなことをしていない人のなかに、偉大な人が数多く存在しているに違いない。
そんなことを思った。
私はこの映画で、人間の生命力というものを、そっと、ではなく、強引に見せつけられた気がした。
その強引さは、あまりにも音がないものだから、強引なのだと気づかないくらいで、それで、見せつけられたのち、私はそこに希望を見て、ああ、この映画を見てよかった、としみじみと思った。
このところ、余裕のない毎日を送っている。
いくつかのことが同時に進行していて、私はこういうのが得意ではない。
ひとりの人と、ひとつの物事とじっくりとつきあいたい。
次はこれ。
ああ、これもしておかなくては。
この締め切りはいつまでだっけ。
少し眠らなくては。
目の前に積まれた読むべき本の山。観るべきDVDの山。返信するべきメール。
べき、べき、べきって、誰が決めているかといえば自分自身。
ほんとのほんとに、すべきことなんて、そんなにあるはずがないのに。
こんな毎日では、なにか、とりかえしのつかないことを、おろそかにしているようで、こわくなる。
なんのために生きているのかわからなくなる。
もっときちんと、ひとつひとつの出来事をかみしめながら、考えながら、生きるべきなのだ。
また、べき、って言ってる。
「追憶と、踊りながら」の人々は、苦しみながらも悲しみながらも、でも、丁寧に、生きていた。