▽ひまわり
『ひまわり』を観た。もう何度目だろう。5回くらいは観ているように思う。私にとって「すごく特別」という映画ではないけれど、二十代の半ばころからの25年間で、そのくらいは観ているのではないか。
自分の年齢が変化するなかで、映画のどの部分に共鳴するのか、変化しているように思う。書き留めているわけではないから正確ではないけれど。
主演のソフィア・ローレンもマルチェロ・マストロヤンニも好き。監督のヴィットリオ・デ・シーカも好き。ヘンリー・マンシーニの音楽も好き。そして今回『ひまわり』のことを、ありえないほどの名作だと感じ入ってしまった。
映画にこめられたメッセージ、映像、色彩、音楽。
映画って総合芸術って奉られているけれど、たしかにその通りです、とひれ伏さないわけにはいかないような、そんなかんじ。
古い映画に耽溺するだけの人にはなりたくないと、なぜか強く思っているので、熱心に耽溺しようとは思わないけれども、それでも、有無を言わさないかんじで、私をぶくぶくと耽溺させた『ひまわり』。
ひまわり畑の圧倒的な生命力。そこに眠る戦争の犠牲者たち。丘一面に広がる戦士たちの墓。
そして戦争で引き裂かれた恋人たち。その後の、それぞれの生活。
そう。どうにもならないなかで、引き裂かれた恋人たちは「それぞれの生活」をしている。
再会し、新しくやり直そう、と一瞬思うけれど、それでも、やはりそれはできず、「それぞれの生活」のなかへ戻ってゆく。
ソフィア・ローレン演じるジョヴァンナが、マストロヤンニ演じるアントニオに言う。(あなたが結婚して子どももいると知って)「自殺しようと思ったわ。でもしなかった。愛がなくても人は生きられるのね」。
私はここに、うたれた。
「愛がなくても人は生きられるのね」というセリフにではない。「愛がなくても」と彼らが思い浮かべる「それぞれの生活」を想い、むしょうにせつなくなったのだ。
だって、ジョヴァンナの子どもの名前は「アントニオ」なんだよ。ジョヴァンナの夫は映画には登場しないけれど、彼のこと、そしてアントニオと名づけられた子どものことを私は想った。
そしてジョヴァンナは「それぞれの生活」、自分の結婚生活を以前のアントニオのときの結婚生活と比べて「愛がない」と言い、そしてアントニオも「それぞれの生活」であるロシアでの結婚生活のなかには「愛がない」と感じているのだろう。
けれど、厳然として、「それぞれの生活」のなかに、想いをもった、愛をもった人たちが生きている。
私は、今回、ここに、強く思いを馳せた。映画や小説では、ワキにどかされてしまう人たちの人生。
出会ってすぐに戦争で引き裂かれた恋人たち。想いが絶頂のときに引き裂かれ、惹かれあった、短い時間の思い出が強烈で、そしておそらく、それは絶対的な出会いだったからこそ、忘れがたい。それはよくわかる。人生のなかでは、絶対的な出会いとそうでないものがある。そう私は思うから。
それでもこの恋人たちが引き裂かれないまま、その十年後を想像してみれば、白けた空気に支配されていることだって充分想像できるのだ。
と、すこし、耽溺しきれていない目線で書いてみたけれど、でも、やはり、私は今回も泣いた。どうにもならない、もう、どうしようもない、このようにしかできなかった。それでも生きる。そういう人たちが愛しくて、せつなくて、泣いた。
自分が、ワキにそれた道を歩いているという自覚があるからこそ、でもそのワキ道にだって、意味がある、あるに違いない、と思いたがっている時期だからこその、感動なのだと思う。