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▪️シークレット・ガーデンと恋とタンゴと

2023/09/10

 

 いつもの土曜日、タンゴサロン・ロカでのミロンガが終わり、みなさんが帰り支度を始め、私はいつものように自分のプレイリストを流そうと思った。そう、いつもはもちろんタンゴを流すのだけれど、そのとき、なぜか、これを、というのが思い浮かばなかったから、タンゴじゃないですけど、と毎日聴いている音楽を流した。

 そうしたら、いい曲ですねえ、と反応があったものだからとても嬉しくて、でも、誰のですか? と聴かれて、ちゃんと応えられなくて、そういえばちゃんと調べたことがなかったな、と仕事に飽きるとあれこれと検索してみている。

 知らなかったことがいっぱい。たとえば、とっても有名な曲もオリジナルは彼らので、いろんなアーティストがカヴァしている。「You raise me up」。

 Secret garden(シークレット・ガーデン)。ノルウェーのピアニスト、ロルフ・ラヴランドとアイルランドのヴァイオリニスト、フィンヌーラ・シェリーふたりの音楽ユニット。

 はじめて彼らの曲を聴いたのは、たぶんもう10年以上前。好きな映画監督ウォン・カーウァイの『2046』で使われていたのだから。大大大好きなトニー・レオンも出演しているしね。そう、聴いていたはずなのに、私はそのとき、その音楽を私のなかに入れなかった。

 今年に入ってからお友だちと『2046』の話をしていて、そのなかでお友だちが、いい曲だね、と言って、それから私はその曲を聴いた。「アダージョ」。すっかり夢中になってしまった。

 土曜日に流したのは「ソング・フロム・ア・シークレット・ガーデン」という曲。

 誰かから勧められた映画や音楽や本、絵画、そのときは、ああいいなあ、と思っても、それが自分のものとなるのは少ない。シークレット・ガーデンはその数少ないなかのひとつ。

 好きな音楽に出逢い、それを愛せることが私は嬉しい。音楽にかぎらず、このところは自分の気持ちが強く動くことに強いよろこびを感じている。受動より能動。

 

 お昼前に目覚めてシークレット・ガーデンのなかでぼんやり珈琲を飲んでいたら親友から電話があった。

 恋愛の話。始まりかけている恋の話を聞くのは心楽しい。けれど親友は言う。「たのしいたのしいばかりならいいんだけど、苦しいね、何度やっても懲りないんだよね」。笑いながら続ける。「ひとりで考えすぎちゃって疲れたよ、考えると疲れるよ、考えた時間返して、って自分に言いたい。結局、私自身の問題だから」。

 よくわかる。だから笑う。親友はこんなことも言う。「いくら今がよければいい、って自分に言い聞かせても、ねえ、路子さん、人間って、先が見えないことが苦手なんだと思うよ、それが確約されている何かでなくても」。私は同意する。「今いるところから未来に続く道みたいなのは、それがどんなにかすかなものであっても細い道であっても、見えないと、難しいよね」。

 「生活はかたまってやってくる」というメイ・サートンの言葉を想う。昨日から何人かの人たちから、いろんな形でのメッセージがあり、それぞれに、ひどく心に響く言葉が綴られていて、私は、それらについて考えずにはいられない。

 どんなタンゴを踊りたいのか、といったテーマで綴られたメッセージにひどく共鳴して、それをここに書くわけにはいかないけれど、そのメッセージの核には、その人のタンゴに対する「自分だけの世界」があった。そこに私は共鳴した。私がタンゴ記念日についてここに書いたから、それに呼応してのメッセージだったけれども、私は、さいきんすこし揺らいでいたタンゴに対する私自身の向き合い方について、ひとり勝手に肯定の空気を感じとって、読み終えたとき、目を閉じて安堵して微笑んじゃう、ということをしてしまった。

 また別の、すこし迷子みたいな状況にいるメッセージにも胸うたれた。その人は、仕事もタンゴも情熱が尽きてしまうことが何より怖い、と書いていた。そして私のブログの記事にふれて、だから現在のステップが大切なのだろう、と結ばれていた。その人のタンゴに対する想いにも強く共鳴した。これまたここに書くわけにはいかないけれど、その核には「タンゴでしか感じられない、かけがえのないもの」があった。読み終えたとき、目を閉じて、数分間そのままでいよう、ってそんな気持ちになった。

 今、その人に伝えたいことは、「情熱が尽きてしまうことが何より怖い」と、おそれながら、自信を失ったり、とりもどしたりを繰り返し、それでも現在のステップが大切なんだね、と、そんなふうに心が動くような人は、そのかたちや色彩は変わったとしても、生きるという、そのものに対しての情熱をなくすようなことはないんじゃないかな、ということ。私はすくなくとも、そう信じたい。

 また別の人からのメッセージ。誰かを愛するって覚悟が必要ですか。というテーマでのメッセージにも考えさせれた。抽象的な内容だったけれど、メインテーマはそれだったと思う。私はこれに対してははっきりと思う。必要だと。ただ、その覚悟というものを同じように相手に求めてはいけない。覚悟をもとめることはいい。けれど「同じように」がだめなのだと。ひとそれぞれ、覚悟の温度は違うから。相手にとっては120パーセントの、もう、人生ひっくり返るほどの覚悟であったとしても、こちらからしてみれば12パーセントくらいにしか感じられない、というのが常だから。

 遠い昔、「愛してる」という言葉をなかなか口にしない人と、そんな話をしたことがあった。その人は愛してる、と女性に言ったことがないといった。なぜ、と問うと、「だって、愛してるって、その人のためなら自分の命をさしだせる、と思えることでしょう」と。

 それを聞いたとき私は、私の「愛してる」と彼の「愛してる」の温度差を体感したものだった。

 とりとめのない文章になってしまった。またしても。

 「生活はかたまってやってくる」状態でメッセージをもらって再確認したのは、私は同じ言語で話せる友人をもっている、ということ。

*↓今ここに残しておきたいという衝動のまま、たいせつにしている動画をアップします。せつなかったりロマンティックだったり誰かがいなくてさびしい、ってときにご覧ください。そう、ひとりきりのときに。できれば静かななかで。……指示が多くてごめんなさい。

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