13.「何も私には起こらなかった」
2020/04/22
[ジャンヌ・ダルクのように(?)]
今日一日で、何度濡れたり乾いたりしただろう。
カーニュ・シュル・メールからニースに戻るバスの中で、私はシートに腰から頭のてっぺんまでを完璧に委ね、ぼんやりと窓に映る自分の顔と、時々少し視点をずらして暗い景色とを眺めながら考えた。
車内の暖房効果で髪とコートは再び乾き始めていた。
佐和子はいつものように、少し離れた座席に座った。後方なので彼女の姿は見えない。
ニースまでおよそ一時間。
身体はぼろ雑巾すれすれの状態でかなり疲れていた。だから髪が乾きコートも乾き、ぽかぽかとしてくると、今度は眠たくなり私はうつらうつらした。
ふと目を覚ました時はもうニース近くで、馴染みのあるイルミネーションがいつものように控えめに、そして今夜は雨の効果が加わってゆらゆらと揺らめいて、街の夜を彩っていた。
ああ。今でも瞼を閉じると、あのイルミネーションの揺らめきがくっきりとした映像を結ぶ。
<ニースのイルミネーション>
なぜなら私はその時、なにものかによってある啓示をうけたからだ。
そう!「祖国を救うべし」という神の声を聞いたジャンヌ・ダルクのように、「書くべし」という啓示をうけたのだ!(大げさですって? ほっといてちょうだい。好きなのよ、こういうのが)。
バルカモニカの佐和子、「私は表現したいんだ、と心が叫びました」にならえば、「私は書きたいんだ、と心が叫びました」である。(もちろん、書くことは表現の中に含まれるのだが)。
私は文章を書きたい。
もちろん、これはずっと私の心にあったことなのだけれど、そして静かな恋人達(リカルドとサビーナ)と山小屋で食事をしていた時にもかなり強く感じたことなのだけれど、この時のは、なんというか、体感した、といった感じで、寝起きの身体に一本長い定規が入ったかのような、そんなふうだったのだ。
だから私はその時思った。
今夜の、雨に揺れるイルミネーションを、きっと忘れない。
そして海外旅行という非日常がもたらすセンチメンタル効果だとわかってはいながらも私はじわりと涙を浮かべていたのだった。
---ひたれる時にはひたってしまえ、ほととぎす(……)。
を信条にしている私はこの時も、じっくり、ゆったりと自分の確信に酔い、思う存分ひたりきったのであった。
[ピカソは色っぽい]
翌日。
南フランスも今日で終わり。その貴重な一日を私たちはピカソに捧げることにした。
アンティーブとヴァロリスを訪れることにしたのだ。
その日も朝から雨だった。
昨日のことがあるのに私たちはまたしても傘ナシで出かけた。
ニースから西に列車で30分。
海沿いに建つシャトーが私たちのめざすピカソ美術館だ。
<ヴァロリス、ピカソ美術館入り口>
エントランスでチケットを買う。ガイドブックに載っていた金額より随分安いのでよくよく見れば、スチューデント料金。
「んまあ・・・」と、いきなりご機嫌な私。
「いくらなんでも学生、にはムリがあるよねえ」といいつつも、「外国ならあり得るぜ」と確信している私の口元は緩んでいる。
佐和子はそんな私を見て「若く見られて喜ぶようになったらおしまいよ、って、いうよね」と笑った後、「それにしても安くて嬉しい」と冷静に言った。
いつものことである。ああ、この冷静さ、いつものことである。
ところで私はピカソのファンだ。
ピカソの「作品」というより、ピカソという「男」のファンだ。
エネルギッシュという言葉が彼ほど似合う男はいないだろう、と思う。精力的、と日本語の方が私のいわんとすることは伝わるかもしれない。少なくとも私の知るアーティストの中では彼が精力男ナンバーワンだ。
恋人が変わる度に作風が変わる、というのも私好みだった。アートサロン時間旅行では「ピカソと7人の美神たち」なんてテーマで何回も講義を行ったものだ。
ピカソがこのシャトーをアトリエとして使用した時の恋人は「ピカソを捨てた唯一の女性」として名高いフランソワーズ・ジロー。
ピカソはアンティーブで制作した作品のすべてをこの美術館に寄贈したらしいが、そこにあるのは、やや落ち着いた作品ばかりだった。
「ピカソは色っぽいねえ」
ふたりでピカソのポートレートの前に立った時、佐和子が言った。
「一回抱かれてみたいものだ」と私は答えた。
それから私たちは待ち合わせの時間と場所だけを決めて別れた。
私はひとりでのんびりと絵を見て回った。
あ、この絵知ってる。
これは見たことない。どんなテーマのいつ頃のだろう。
そんなことを考えながら「鑑賞」していた。やがて疲れて部屋の真ん中のソファに腰掛けた。
「やはりその場の空気、ピカソ自身がここで制作していたという空気は作品に命を与える、ああ、ピカソが生きている間、彼に会いたかった・・・!」
と、猛烈に思ったような気もするけれど、いやいや、もしかしたら、そう思いたかっただけなのかもしれない。あんまり感動のない事実を封印してしまうためにそう思おうとしただけかもしれない。
[あんなに濃密だったのに]
だいたい、この絵知ってる、知らない、なんて「考えながら」絵を鑑賞すること自体、ヘンなのだ。
絵を見ることが好きだから、という純粋な気持ちがどっかに行ってしまっている。
自分の知識を補おうと、いつか仕事につなげようと、そんな気ばかりが先だって、肝心なことがおろそかになってしまっている。
思えば、初めてのヨーロッパ、ウィーンでクリムトの「接吻」に出会った時の衝撃、シーレの「死と処女」を前にふるえがとまらなかったあの時の驚き。それらをもたらした私自身のアンテナと火種。
私はすでにそれらを失ってしまっているのだ。
と、気づいても、もはや取り戻そうともしていない、という事実。
私はすでに、もうどうでもよくなっていたのだろうと思う。
あんなに濃密だった絵画との関わり、描いた男、描かれた女。それらがどうでもよくなってしまっていたのだ。
だから、アンティーブのピカソ美術館の静かな一室の真ん中の六角形のソファで背中をまるめながら思ったのは
「いつかまた胸ときめかせて美術館を巡るような日が来るのだろうか」
という単純な問いかけだった。
美術そのものと距離を置けばいつかそんな日が来るのかもしれない。
馴れ合ってしまった恋人達がときめきを取り戻すために会わないでいるような感じで、距離を置けば。
もちろん、出会ったばかりの頃のようなときめきは絶対に取り戻せない。
けれど距離を置いて、再び触れあった時、そこには最初のときめきの色と同じではないけれど、なかなか味わいのある色彩があるはずだ。
そんな予感だけはあった。
そして予感というものには多分に願望が入るはずなので、私は絵画との関係性が全くなくなってもしまってもいい、とまでは思っていなかったのだろう。
アンティーブのピカソ美術館。
雨のシャトー。
記憶は薄い。
強烈なピカソの絵に触れた場所なのに、思い出そうとしても、かぎりなくモノクロのピンボケに近い記憶なのだ。
そして、それはヴァロリスでも同じことだった。
[ヴァロリスの戦争と平和]
<戦争と平和>
アンティーブを後にしてバスで向かった陶芸の町、ヴァロリス。
バスの停留所の正面に見えるヴァロリス城。この中に『戦争と平和』が納められている国立ピカソ美術館がある。
国立ピカソ美術館。なんだかすごそうだ、と思っていたのだが、実際訪れてみてちょっと拍子抜けしてしまった。
国立ピカソ美術館とはシャトーの礼拝堂のことで、ここの壁に『戦争と平和』はあるのだった。つまり国立ピカソ美術館の収蔵作品はこの一作品のみ。
『戦争と平和』は1950年の朝鮮戦争勃発をきっかけに描かれた。
礼拝堂を入って左手に「戦争」、右手に「平和」。天井は両者が合掌するかのようにひとつの作品となってまとまっている。奥の壁に描かれた黒い人、黄色い人、赤い人、白い人。彼らは平和の光に向かって手を差し伸べている。
いくらアートへの熱が冷めて来ているとはいえ、私はこの『戦争と平和』にはある種の期待を寄せていた。なぜなら、これと比較されて語られる『ゲルニカ』に私は並々ならぬ想いを抱いていたからだ。
スペインはマドリッドにある『ゲルニカ』についての次のエッセイを読んで欲しい。
<ゲルニカ>
初めて本物を観たのは26歳の春だった。
そのためだけに訪れた、スペインの首都マドリッド。
ソフィア王妃芸術センターの、その部屋の空気は濃密で、少しひんやりとしていて、そして痛いくらいに厳粛だった。
それまで私の前をいちゃいちゃと歩いていたカップルは静かにお互いの躰を離し立ち竦む。床に座り込んでいる若い男性は睨つけるように絵を見上げている。支え合うようにして立つ老夫婦、彼らの目は潤んでいる。
美術館のひと部屋とは思えなかった。
縦3.5m、横7.8mの巨大な壁画。私は絵からできるだけ離れ、床にしゃがみこんだ。オーバー・アクションではなく、あまりにも大きなものに触れて、立っているのが本当に困難だったのだ。
モノクロの画面。
逃げ惑う人々、死んだ子供、泣き叫ぶ母親、折れた剣を握る兵士の腕、いななく馬……。
燃え盛る炎や夥しい血の海の、鮮やかな色彩、そして、耳を切り裂くような悲鳴、嗚咽。痛い。
膝を抱えたまま動けないでいるのに、躰の真ん中が激しく揺さぶられる。
作品を覆う防弾ガラスに気付いて、美術館の入口で持ち物を全て預けさせられ、金属探知装置をくぐらされたことを思い出した。テロを警戒しての厚いガラスはスペイン戦争がこの国の人々に残した傷痕の深さを物語る。
けれど、そのガラス越しにアネモネの花が一輪、咲いている(画面中央下)。「再生」を意味するアネモネが……。
泣けてきた。
戦争は人類の最も愚かしい行為。そんな事は分かりきっているけれど、だけど、この絵はどんなに多くの本よりも、どんなに多くの人々の言葉よりも、ダイレクトに強烈に、私に、それを訴えていた。
ショックだった。私は絵画からこういう感覚を受けたのは初めてだったのだ。
好きな絵、というのとは違う。この絵は私の中にある、愛とか美に反応する敏感で柔らかい核と同じ核を、強く刺激するのだ。
作者のピカソと同じく、波乱に満ちた『ゲルニカ』の「運命」はここではとても語り尽くせないけれど、世界の絵画史上これほど政治的な意味を持つ絵画はないといわれている。
それにしても、一枚の絵画がこれほどまでに雄弁に、人間の心に訴えることができる、という事実は凄いと思う。
難しい事を言うつもりはない。私はいつも政治とか、ましてや戦争とは、なんて事を考えて生きているわけではない。それどころか、何より自分が大切で、美容健康、恋愛、仕事……、それだけで1日24時間は過ぎて行くのだから。実際は。
けれど、そんな私でさえ、感じることができる、ピカソ、『ゲルニカ』のメッセージ。
今なら良くわかる。このマドリッドでの一枚の絵との出会いが、「裸体と感性で触れる芸術」を私のメイン・テーマにしたのだと。
一枚の絵から生まれる物語。
時代を超えて創造されるそれは、絵と自分との間にだけ存在する、たったひとつの物語だ。
ピカソが言ったように、絵というものは「それを観る人の心の状態にしたがって変化し続けるものだ」と、私も思う。
だから、敏感でありたい。
美、愛、そして痛み、に対して共鳴する五感を、何より大切にしたい。
これは隔週一年にわたって雑誌に連載された『彼女だけの名画』の最終回。
最後だからか、ずいぶん力が入っている(特に「裸体と感性で・・・」には赤面)が、書いている内容は真実だ。それだけ私は『ゲルニカ』に感動していたのだ。
それなのに、ゲルニカ体験から四年、『戦争と平和』のただ中に立っていても、「なにも」私には起こらなかった。
意識を集中して、「そこ」に自分を持っていこうとするのだけれど、だめ。
『戦争と平和』の中で私はひどく脱力していた。
それからピカソが陶芸にはまったマドゥーラ工房なんかにも行ったけれど、そして広場で有名な彫刻「羊を抱える青年」も見たけれど、心に響かず、私はお土産屋で押し花が装飾的に張り付いた太いろうそくを買った。
今でもそのろうそくをつけるたびに、感動しなかった礼拝堂のあの湿った冷たい空気を思い出す。
ところが佐和子は違っていた。
冷えた身体を温めるために入ったカフェで、礼拝堂の『戦争と平和』が彼女にもたらした想いを語ってくれたのだった。
[それは深いと思わない?]
「昨日のマティスのロザリオ教会といい、ヴァロリスの教会といい、画家と街とその人々の幸せな出会いが生んだものは、本当にそこにあるべきものとして、すばらしいね」
二人でカフェオレを頼んで、少し身体が暖まった頃、佐和子が言った。
私はカフェオレをずずっと飲みながらうなずいた。作品についてのうんちくとか感想だったらその時の私にはきつかっただろうけど、どうやら違うようなので「助かった」と思っっていた。
佐和子は両手でカフェオレの入ったボウルを抱えたまま続けた。
「画家って一番社会性ということから遠いところにいる人間として思われているけど、そうじゃないと思うんだよね。社会性って何、っていわれたら難しいんだけど、政治の状況とか社会の空気とか、そして、人間がなぜ生きるのかっていう根本的なことを含めて、ぜんぶ飲み込んで、それで生き抜くかたちが、美術というカテゴリーに含まれるという」
「うん、ミラノで修平さんや伊藤福紫さん、大木泉さんもそんなかんじだったもんね」
と私は合いの手を入れる。
「そうそう。それは作家にしても同じで、芸術家つまりアーティストというすべてにあてはまると思うんだけど。うん、孤独な作業の連続なんだと思う。絶望にほんの少しの希望」
佐和子はここでカフェオレを一口飲んで、ちょっと遠い目をした。そしてひとり軽く頷いて、続けた。
「人生が果てしない苦役に思えたり、つかの間の幻影に思えたり、するんだろうねえ。そんな画家が、街とそこに住む人々との共同作業のように、つくりあげた教会には、その画家が知り尽くしたすべてのことのなかから、希望とか、愛とか、あたたかいものだけをとりだして、そこに置いたよ、っていう優しさがあるような気がする」
そう言って、ふう、と息を吐いた。
あの湿った冷たい礼拝堂で、ピカソの『戦争と平和』の中で、私と佐和子はまるっきり違う世界にいたのだ。私はただ脱力していただけ。何という違いだろう。
私はこの旅行で何度目かの「うらやましい」感覚を佐和子に抱いた。
そんな私に気づくわけもなく佐和子は続ける。
「わたしが、あまりの悲惨な何かを目の当たりにして、『神はどうしてこんなことを』と思うときの絶望感は、神を信じていない人が『神も仏もない』というときより少しつらいと思う。それと同じようなことが、ここでいえると思う」
ここでカフェオレ。そして少し考えて、「うーん、うまく伝えられるかなあ」と瞬きをする佐和子。
私は「いいよ、なんでも口にしてみて。それを頭ん中でまとめるから」と言った。佐和子の話に引き込まれていたのだ。
佐和子は少し笑って続けた。
「人が生きていくすべてのことを濃厚に味わうようになっている画家にとって、神の存在がどのようであるかは、それぞれなんだろうと思う。ただ、失望や絶望や虚無感に襲われたことは、きっと数知れなくて、だけど、その画家が、その街の教会をつくるときに、絶望のかわりに、希望を描くとしたら、それは深いと思わない? そしてそれは、画家にとってもしあわせなことなんだよね。自分のなかの希望をとりだせたから。そんな、しあわせなあたたかな、空気があったなあ。あの教会には」
こういう話を佐和子は淡々とするのだが、だからこそ言葉が際立つというか、色彩を持って、聞く者の胸に迫ってくる。
アンティーブのピカソ美術館で、そしてここの礼拝堂で感動できないことに少なからずショックを受けていた私であったが、佐和子の言うことは、私のショックの理由を飛び越えたところでの話だった。
「ときめきがなくなったからアートと距離を置こう」なんて考え、とんでもない屁理屈に思えてきた。
私はすでに冷たくなってしまったカフェオレを残したまま、通りを眺めた。
さっきまで雨が降っていたせいか、人通りはなく、ヴァロリスのメインストリートは、観光地のそれとは思えないほどひっそりとしていた。
<陶芸の町、ヴァロリス>