11.「片翼との出会い、それが結婚」
2020/04/22
[ふたたび、踊り子]
<ホテルの窓から>
翌朝、目を覚ますと、コート・ダ・ジュールの空気がさわやかに、部屋いっぱいに満ちていた。
佐和子が窓を開け、海を眺めていたのだ。
その朝、私たちは外国映画風にベッドで朝食をとった。
大きくて重たいクロワッサンとコーヒー、ミルク、甘いオレンジジュース、スクランブルエッグにベーコン。
今日はどこへ行こうか。
とりあえず、ニースで過ごそう、ということになった。
気分のおもむくまま、街をぶらぶらして、それから美術館にでも行こう、と。
ニースには、シャガール美術館、マチス美術館、ニース近代・現代美術館、マセナ美術館、ニース美術館と、たくさんの美術館がある。
し・・・しかし後にこの日は、「空白の一日」あるいは「踊り子の一日」と呼ばれることになってしまった。
確かに当初の予定、「気分のおもむくまま」過ごした結果であったのだが。
いけないのは、そこに、「倉庫」があったことだった。いや、それはれっきとした店なのだが、中の雰囲気はまるで倉庫で、ただっぴろく、そして私と佐和子好みの服がいっぱい詰まっていたのだった。
のんびりと支度をして昼頃ホテルを出て、ニースの大通りを歩いていて見つけた店だった。
何気なく入った私たちは、そこで「踊り子」(1『真冬の~』参照・・・するまでもないか)になってしまった。
「ああ、私はくるくるくるくる回り続ける踊り子、誰かこの靴を脱がしておくれ」と歓喜の悲鳴をあげながら、私と佐和子は目を血走らせて服を物色し、何度も試着して、結局その倉庫で3時間あまりを過ごした。
だって、日本ではいくつものお店をめぐってもなかなか気に入ったのを買うことができないのに、そこでは「あれもこれも」欲しかったのだ。
しかも、安い。大きな紙袋に一杯の服を買っても、日本でのジャケット一枚分にも満たない。
ふう、と一段落つくと、やたら喉が乾いていることに気づいた。
そこで近くのカフェに入り、ふたりしてパナシェをオーダーした。
これは私が数年前のパリで覚えた、ビールとレモネードのカクテルで、めちゃくちゃ美味しい。
パナシェで頬を赤くしながら1時間、
「なんでこんな気に入ったものばかりあるの。やっぱりフランスに住めってことかしら?」
なんて真面目にフランス移住計画なんかを話し込めば、もう夕刻であった。
荷物もたくさんあるし、今日はもうホテルに戻ろう。
私たちは途中で今夜のディナー、いつもの果物、野菜にパテを奮発して、ワインを買った。
そして部屋に戻り・・・ファッション・ショーが始まった。
「いいよお、似合う似合う」
「うわ、セクシー、鼻血ブー」
「めちゃくちゃ使えそう」
はしゃいで、お互いのまで着てみて、気づけば、外は暗くなっていた。
その日、私たちは波の音の中でディナーをとり、「一日くらいこんな日があってもいいよね」とどちらからともなく慰め合って、眠った。まったく知的ではない一日ではあったが、妙な充足感があったのがちと悲しい。
[salle des mariages]
翌日は昨日の反省もあって早く起きた。
マントンへ行く日だった。
ここは、今回の旅行中、もっとも楽しみにしていた場所のひとつなのだ。
私たちは昨日の「踊り子」の結果得た服(私は黒いスパッツを、佐和子は腰のラインがなまめかしいロングスカート)を身につけて、意気揚々とニース駅に向かって歩いた。
途中、昨日の「倉庫」の前を通りぐらりと身体が振られたが、ぐっと体勢を建て直し、列車に乗ったのだった。
マントンはニース駅から列車で30分。イタリアと国境を接する地にある小さな町だ。
駅に降り立ち、そぼくなメインストリートを左に曲がって15分ほど歩くと、トリコロールのフランス国旗がいくつもはためくクリームイエローの建物、マントン市庁舎が見えてきた。
「ここだ、ここだ」と私は胸躍らせながら重い木の扉を押して中に入った。
チケット売場に座る初老の男性に「ボンジュール、ムッシュー」と声をかけ、コクトーの「結婚の間(salle des mariages)」を見たい、と告げる。
彼はのっそりと立ち上がり、先に立って私たちを案内してくれた。
両開きの重厚な扉を中に入った瞬間、そこでしか感じられない、おそらく感じられないであろう、厳かで美しい空気が私を包んだ。
<結婚の間>
目を閉じて大きく息を吸った。
「しばらくしたらテープをかけるから」と言って男性が出ていった。
ぎいっという扉の音とともに、静寂が訪れた。
「結婚の間」には私と佐和子しかいなかった。
私は赤いビロードの椅子がきちっと並べられている空間を見渡し、そして豹柄の(!)バージンロードを静かに進み、そして真ん中で立ち止まった。そしてゆっくりと振り返って正面の絵を見上げた。
<正面の絵>
[今、誓う、ふたりで生きてゆくことを]
黄色とオレンジの明るい太陽のもの、見つめ合う猟師と娘。『les fiances』。
抱き合っているわけでも、キスをしているわけでもないのに、こんなに二人の結びつきを強く感じるのは肩のラインが一本に描かれいるせいだろうか。
一目観た瞬間に、いい、と思った。そして次に、二人の目の輝きから「誓い」、「誓約」といった言葉が浮かんだ。
両サイドの壁、天井もコクトーの絵で埋め尽くされている。
正面右手には古来伝統の結婚式の様子・・・新郎新婦の幸福をよそに、不満そうな新郎の母、新郎に捨てられた妹を抱き寄せ、新郎を睨み付ける男、などが描かれていた。
ああ、いつの時代も変わらない。
右の壁にはオルフェウスの竪琴、エウリデケの死が、そして天井に描かれていたのは・・・。
不安定なペガサスにまたがる「詩」、世界を支配する貧相な「科学」、「愛」のキューピッドは通常とは違って目隠しをしていないが、目をきつく閉じている。
しかも弓は射られることがないのだろう、左手に弦を、右手に矢を持っているが、それらは離されている。
けっして明るいテーマではない。結婚の間にそぐわない。
いや、だからこそ、ふたりの誓いが際だつのだろう。
さまざまな悪意、悪事がうごめく世界。薄曇りの未来。それでも、今、誓う、ふたりで生きてゆくことを、結婚を。
「愛を信じる心」。
普段それを口にするには躊躇してしまうが、その時はそんな言葉がすんなり浮かんだ。
ずっと見上げていて首が疲れてきたので、天井画から再び正面の絵画に目を移した。
と、その時、私は強く感じたことがあって大きく息を吸い込んだ。
それはずっとあやふやだったことに対するひとつの解答が出た瞬間だった。
「ああ、私は結婚したかったんだ」と、気づいたのだ。
[私が結婚した理由]
私は、この旅行の一年前に結婚をしていた。
結婚って何だろう、と思いつつ、結婚をした。
シンとは一緒に暮らしたかったし、シンも同じだというので、それでは一緒に暮らしましょう、ということになった。
結婚なんて紙切れ一枚のことだしナンセンスだよね、というところでは一致していた。
ただ、両親には了解を得なくては、と、私の両親に一緒に暮らしたい旨を話した。
すると「なぜ、結婚をしないのか。結婚をしない理由を聞きたい」と言われた。
あらためて、私は結婚をしない理由を考えた。けれど、これ、と言ったのが浮かばなかった。シンも同じだった。
私の両親は「すぐに別れるかもしれないから、なんていう半端な気持ちなら、一緒に暮らすことをせずに、そのままつき合えばいい」と言った。
なんとなく、それも納得できた。
それに、「すぐ別れるかもしれないから」、私は結婚をしないのではなかった。
結婚をする理由がみつからなかったから、結婚しなくていい、と思ったのだ。
けれど、考えるうちにやがて、結婚しない理由がみつからず、それでも一緒に暮らしたいなら結婚してもいいではないか、と思い始めた。
それをシンに言うと、彼は最初しぶっていたが、結局
「それじゃあ、今度の写真展を婚約発表の場にしよう」
という、今から思えば、とりあえずのプロポーズの言葉を口にして、私たちは元旦に入籍し、そしてその三ヶ月後、今から思えば「よくやるよなあ」と思ってしまう「結婚パーティー」を開いたのだった。
「わーい、なんだか楽しいぞう、らぶらぶだあ」的意識はあったものの、結婚する自覚などほとんどなかった。
私は旧姓のまま仕事をしていたし、生活も変わらなかったから、よけいに結婚を感じる機会がなかったのかもしれない。
そしてそのまま、一年が経とうとしていた。
ところが。
コクトーの手がけた「結婚の間」で私は確信したのだった。
結婚がしたかったのだ、と。
人生を共に歩んでいく、という「誓い」に「美」を見ていたのだと。
一瞬かもしれない、恋愛の昂揚は長くは続かないし、ひとの心も変わりやすいから「誓い」の気持ちも一瞬にして冷めることもあるだろう。
けれど、だからこそ「その瞬間」の気持ちが貴重になる。
この「結婚の間」で見つめ合い、「永遠の愛」を誓う恋人たち、その瞬間の二人の気持ちはきっと「真実」だ。
明日、別れる運命にあろうとも、誓い合った瞬間のふたりは美しい。
時代は変わってゆくし、人にはそれぞれ違った生き方がある。あえて、結婚をしないひとたちの考えを私はけっして否定しない。
ただ、私は、コクトーの魂に満ちたその空間で思ったのだ。
「結婚」というスタイルがずっと昔から存在し、そして現在もある、という事実。
これは普遍的で自然なことだからだとはいえないだろうか。
そして自然に逆らうということはいつも苦痛を伴う。
いつしか日本語解説のテープが流れていたが、私はそれをほとんど聞き流していた。
そして両手を交差し、自分の腕をぎゅっとつかんだ。
シンの不在を強く感じた。
[結婚したいなんて、口が裂けても言えなかった]
やがてテープ解説も終わり、空間に静寂が戻った。
佐和子がシャッターを切る音だけが響いている。
天井にカメラを向けている佐和子に、「おっと。うっかりひとりの世界に入ってしまった」と私は言った。
佐和子はおだやかに笑って、「いい空間だねえ」と言った。
それから私たちは何枚か写真を撮って、市庁舎を後にした。
ぷらぷらと町を歩いて、海の見えるカフェに入った。
サラダ・ニーソワーズ(ほとんど毎日食べていた。アンチョビの大きさにはいつもびっくりだった)とパン、そしてパナシェの昼食をとった。
私は、「結婚の間」で感じたことを佐和子に話し、「・・・それでね、ああ、私は結婚したかったんだ、ってわかったの」と結んだ。
すると佐和子は間髪入れずに「わたしは、ああ、結婚したいんだ、って思ったよ」と言って笑った。
「ほんと、あなたが言うように、いろんなことがあるけど、哀しみも怒りも絶望もあるけど、目の前のあなたを愛している、そんな二人がそこにいる。
魂の出会い、というか、やっと片翼に出会う、それが結婚だと思った。
ほら、わたしは今29歳でしょう?(私は30になっていたが、佐和子は早生まれの恩恵を受け、まだ20代なのだった。)微妙な年齢だよね。
仕事も結婚も30までには何とかしなくちゃ、っていう圧力がいわゆる世間的にも、まあ自分のなかにもあって、それに無理に対抗するようなところがあって、結婚したいなんて口が裂けても言えないような、かたくななところがあったと思う」
「うん、わかるよ。私の中にもそういうところがあった、って今は認めるよ」と私は言った。
佐和子は軽くうなずいて、
「でも、あの空間で、結婚の意味を素直に感じられたんだよね。相手が存在していることが、同時に自分の存在が祝福されていると思える、そういうお互いに出会って、共に生き抜いていく、それが、結婚なんだなあ・・・」
「そうであればいいよね」と私は言った。自分が結婚していると、いちいち自分たちはどうか、と自問してしまうのである。
「聖書は、結婚についてどんな風に言っているの?」と私は尋ねた。
佐和子はうーん、少し考えてから言った。
「創世記には『人が独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者を造ろう』と神が言ってその結果、男と女が造られたとあるんだけど、これは男にも女にも言える言葉だと思うんだよね。もちろん、独りで生きているのだけど、だけど、彼(女)に合う助け手は必要なのだよ」
ここで佐和子はパナシェを飲み、「それにしてもさあ」と顔を輝かせた。
「そんな結婚の本当の意味を、描かれた二人のまなざしだけで表現したコクトーはすごいよね。それに、コクトーにそんな仕事を依頼した市長もすごいよ。役場の婚姻届けを署名する場所がそんなところにあるってとこが、マントンという街の精神を表していて、まことにすごいざんす」
「私の友人の友人に、あそこで結婚式を挙げたひとがいるんだけど、あ、日本人でね。私はフランスというお国柄からすっかり教会式かと思っていたら、人前式なんだって。なんかいいなあ、って思ったよ。私は信仰を持たないから、自分の結婚の時もそうだったけど、人前式が好きなんだ」
「うん。あの空間にふさわしいね。コクトーが創った空間に」と佐和子は言い、「それにしても」と続けた。
「恋の旅として始めたはずが、いつの間にかセンチメンタル・ジャーニーと化していたけど、お互いの人生の助け手である誰かと出会う日が来ることを心から切望したよ。表現、水、に続いて結婚が加わってこの旅の3大テーマとなったのでした」
「私たちの南仏のテーマ、女を楽しむこと、と重要な関連があるような気がする」と私は言った。
昼食を終え、私たちはまた歩いて、コクトー美術館へと向かった。
[ジャン・コクトーに、ひたる]
<コクトー美術館>
私はジャン・コクトーが好きだ。
ルックスはもちろん(!)、でもなにより彼の「自由な精神」に強く惹かれる。
権威に従わない、規範を持たない、モラルに縛られない彼の姿に私は憧れるが、でもそういった自由な人間が「常識的な社会」から糾弾されるのは、いつの時代も変わらないようだ。
同性愛者だったこと、阿片を喫んでいたこと、そして芸術の一分野だけではなく多方面に才能を発揮した彼を、大抵の人は「思想がない、軽薄な男」と見た。
日本でも、コクトーは晩年になるまでフランス文学者から相手にされなかったという。
理由は、「文学的ではない」から。でも私が敬愛する坂口安吾、三島由紀夫、澁澤龍彦サマたちが、その時代のコクトー愛読者だった。
ほんものは、理解されるべきひとに理解されればいいのだ、と改めて思う。
コクトーを愛し、また愛された俳優のジャン・マレーは言っている。
「文学の歴史の中でコクトーほど人々に憎まれ、罵られ、意地悪な批判を浴びた詩人はいない」と。
コクトー自身も、自分が「誤解」されていると、自分の「虚像」が一人歩きしていると、こぼしていたという。
「私は君が信じているような人間じゃない」と繰り返していたと。
「誤解」。
人を「理解」するのは限りなく不可能に近い、と私は思っているので、理解されようと、やみくもに思うのはとっくの昔にやめているけれど、それでも、「誤解されている」と感じながら人とつき合うのは楽じゃない。
コクトーは社交的ではあったけれど、どんな芸術グループにも属さなかったことも「誤解」を生む理由の一つになっていたのかもしれない。
群れれば、そこには必ず規範や権威、集団のためのモラルが生まれるから、コクトーは避けたのだと思う。
「私は自分の内部から生まれない秩序にはけっして従わなかった」
と言っているくらいだから。
そんなコクトーへの思いを胸に抱きながら、私は静かな古城の上階の小窓から地中海を眺めた。
この美術館はもともとは1636年に建てられた海辺の要塞だった。
コクトーは南仏を愛してやまなかったが、マントン市長の依頼で「結婚の間」を創った時、海辺に取り残されている古城を見て、自分の美術館に、と望んだ。
そして自らの手で美術館を手がけた。完成を待たずに亡くなってしまうが・・・。
石に囲まれたコクトーの小宇宙、城壁にあたってくだける波の音。
現実を遊離するのにこれほどふさわしい空間はない、と思った。
しばし私は自分が抱えている全ての夾雑物から自由になった。
人生に、無限の可能性を感じた。
古城を出て、海風に吹かれた。
「いい美術館だったね」と私は言った。
「小さい美術館だったけど、それでも彼の心の中にいるような空間だった」と佐和子が言った。
空を見上げた。明るく青い空が広がっていた。
「いい天気」と私は言った。
「空と海の色って似るんだね」と佐和子が言った。
<波と風の音とともにある古城、コクトー美術館>