9.「自分の切実さがどこにあるのか見つけたい」
2020/04/22
ラグーナのほとりに街灯がともる。
しんと凍るようなブラーノ島から本土に戻り、観光客で賑わう通りをぶらぶらと歩き、いくつかの店を冷やかした。人々の熱気がこれほど温度を変えるのか、と思う。ずいぶん暖く感じた。
<ひとりでぷらぷら歩いていて見つけた面白いショーウインドウ>
ホテルの近くで昨夜飲んだ地ワインとチーズを調達し、部屋に戻った。
今夜もホテルの部屋で簡単な夕食をとることになっていた。
毎晩外食できる余裕が私にも佐和子にもない(この貧乏加減が同じところもうまくいった理由のひとつかもしれない)のと単純にそれを楽しんでいたからである。
佐和子はまだ戻っていなかったので、私はぬるいミネラルウォーターを飲みながら、次第に夜になっていくラグーナと点々と続く美しい街灯、それから通りを歩く人々をぼんやり眺めていた。
シンはこの風景をどんなふうに感じるかなあ、一緒に来たらどんな楽しみがあるかなあ、なんて、また東京のシンのことなど考えてしまう。
佐和子が帰ってきたのは一時間くらい経ってからだった。
「あー、寒かったあ」と言って、パプリカやりんごの入った袋をベッドの上にどさりと置き、私の買ってきた地ワインを見て、「お。いいねえ」と笑った。
今夜も、しゃべりまくるのだろうか、私たちは。
交代でシャワーを浴びて、化粧を落とし、ちょっと小皺はあるものの、つるつるの顔を向かい合わせて私たちは乾杯した。
「どこ、行って来たの?」
私はわくわくしながら佐和子に尋ねた。
今日はどんな話が聞けるのだろう、と、すっかり聴講生の気分だ。
「キオッジャ。あなたは?」
「ブラーノ島」
「へえ、どうだった?」と佐和子が目を輝かした。
「わたしも行こうかと思ってた島だよ」
そういえば、ブラーノ島はとても静かそうでそそられると昨夜言っていた。
私は「ドゥ ユウ ノウ コウジキヌタニ?」(8『心のセンサーが、同じように動いている』)の話をした。
佐和子は「いいねえ。あったかいねえ。そして示唆に富む出会いだねえ」と言った。
「やっぱり、そう思う? なぜ、絵関係の人なんだろう。アートに関する仕事に疑問を感じているこんな時に。続けろってことなのかなあ」
と頭を抱える私に、
「まあ、そういうわけじゃないけど、ま、考えなさい、ってことなんでしょう」
いつものように淡々と、佐和子は言った。
私はワインをごくりと飲んで(ほんっと、美味しいのよ、これが!)、そして尋ねた。
「で、キオッジャ、どうだった?」
佐和子は、「凍えたよ」と笑って、「寒風の中、片道3時間のひとり旅なのであった」と話し始めた。
[凍える異邦人]
キオッジャは、とにかく遠くてさあ。
まず、ラグーナの防波堤のように細長く伸びているリド島とマラモッコ島を、船とバスで乗り継いでマラモッコ島のはじの船着き場まで行って・・・それがまた墓地の横にあってね、なんにもない海となんにもない桟橋で、キオッジャ行きの船がなかなか来なくて、わたしはただ寒風にされされていたよ。
さすがに観光客はほとんどいなかったな。
キオッジャは小さな港町でね。
観光地じゃないから、のんびりした人々の日常生活が感じられてよかったけど、でも一方で、異邦人である自分が浮き上がっているわけ。
ひとりでいる緊張もあったんだろうけど、すれ違う人や、店の中からの視線が痛くてさ。
寒さでがちがちのからだと空いてきたおなかが、あったかいエスプレッソを欲しがっているというのに、入れないのよ、バールに。
地元のひとでいっぱいでね、なぜだか・・・入れなかった。
寒いし、おなかは空くし、情けなくてうろうろしていた時、後ろから声をかけられたの。
振り向くと、2人組の漁師のおじさんが笑顔で立っていて、
「やあ、どっからきたの?」って。
「日本から」って答えると「いい旅をね」って手を振って行っちゃった。
ただそれだけなんだけど、かじかんでいたこころがほっと溶けてね、通りのバールに入って、エスプレッソとホットドッグを食べたの。お店のおばさんもやさしく接してくれたな。
「ふーん」
と私は相づちを打った。
佐和子が感じた異国での疎外感、はよく分かる。
そして、佐和子の体験は、人生の中でもしばしば起こりうることだ、と思った。
「かじかんだ心」が、ある些細なきっかけによって「ほっと溶ける」瞬間。
そういうことを繰り返して、人間は生きているような気がする。
もちろん、それを自覚することの多い人間とそうではない人間とがいると思うが。
私たちはおそらく、いちいち、あの時のきっかけはアレだった、なんて分析するのをほとんど楽しんでいる、自覚しすぎてドツボにはまりがちな人間である。
<佐和子のかじかんだ心を溶かした漁師のおじさん二人組>
[海の上に独り立つマリア]
「それで、マリア像には会えたの?」と私は尋ねた。
昨夜の話で、佐和子が「ヴェネチアをすっぽり包むラグーナには、海に立つマリア像があると聞いてぜひ向かいあってみたいと思っていた」と言っていたからである。
佐和子は「うん」とうなずいて、再び話し始めた。
……この旅の目的のひとつだったからねえ。
陣内先生の本には、ヴェネチアの本島から南のキオッジャまで、ラグーナを巡る運河を舟で進むと、途中何カ所かで、水上に杭を立てて小さなマリア像を祭っている光景に出会える、って書いてあって、でも本に載っていたのは、船上で撮った白黒写真で、祠がわかる程度。それ見たらなぜだか無性に会いたくなったのよね。
キオッジャに向かう途中、船上で冷たい海風にさらされながらわたしはマリア像を探した。
地元の人たちのための船だから、外洋に向かって立つマリア像のそばは通らないでしょう?
遠目にあれかなあ、って目を凝らしてさ。
キオッジャの港に入る手前に、マリア像が立ってた。
見たよ。
寒空の凍えるような空気のなかで、海の上に独り立つマリアを。
孤高だった……。
まだ、その世界にいるかのように、佐和子は目を細めて、それからワインを飲んだ。
「いいかんじだね。行きたくなる」と私は言った。
「寒すぎたけど」と佐和子は笑った。
<ああ。独り海に立つマリア像>
[佐和子と百合の花]
佐和子はクリスチャンである。
ヨーロッパを旅していると必ず3つのものに出会う、とはよく言われることである。
ギリシア神話、キリスト教、ナポレオン。
これらについての知識があるかないかで、その旅はずいぶんと違ってくる。
表面のちょっとした知識しかない私と比べて、自身がクリスチャンである佐和子は、同じものを目にしていても、全く違う感じ方をしているに違いない。
だから、佐和子からそういう話を聞くのが私はとても楽しみだった。
そして、重要なことだと思っていた。
私は信仰を持つということに、とても抵抗がある。
それは、信仰を持つということが自分ではない他者に身をゆだねる生き方に思えて、私にはできないからである。
だから信仰を持つ人というのは私とは全く別の人種なのだと思っていた。
しかし、佐和子は全く別の人種ではない。むしろ、非常に近いところにいる。
その彼女がクリスチャンであるということに、私は大きな関心があった。
佐和子が洗礼を受けたいきさつをずっと前に聞いたことがある。
それは私にとって、とても意外な感じで、だからとても新鮮だった。
簡単に述べると次のような話になる。
佐和子は教会の近所に住んでいた。
だから小さな頃から遊びに行くように教会に通っていた。
佐和子曰く、「私は人間として冷血なところがあるので、聖書を読むと少しはましになると思って通っていたのよね。でも、あまのじゃくだから、洗礼を受けるのはまっぴらごめん、ひとつの価値観に属するのは嫌だと思っていたの」。
高校卒業時、進学する学校に受かった報告を教会の牧師にした。
その教会は夫妻で牧師をやっていて、その妻の方に、佐和子は話をしたわけである。
すると、偶然にも、佐和子が行くことになった大学は昔夫妻が通った神学校があったところだった。
その女性牧師は遠い目をしながら、こんな話をした。
「校舎のわきに玉川上水が流れているでしょ。その土手に白い百合の花が咲いていてね。弘隆がそれをとって、私にくれたのよ。」
弘隆というのは、牧師である夫のことである。
「自分の親と同世代のひとの単なるのろけ話」であったが、佐和子は愕然としたのであった。
「洗礼なんか受けない、私はキリスト教の世界にどっぷり浸かりたくない」と思って逃げ回っていた佐和子であったが、これから行こうとしている学校の校舎に、数十年前牧師夫妻が通っていた。しかも百合の花のエピソードつきで・・・。
「なんだかつながっちゃっている。まるで私は菩薩の掌の上で転げている孫悟空。もはや逃げきれん」と思い切り、それで数週間後に洗礼を「受けちまった」のだと言う。
この話を初めて聞いた時私は言ったものだ。
「そんなもんなの?」と。
すると佐和子は「だって・・・!」と大きく息を吸って、それから「百合の花だよ、百合の花!」と面白そうに言ったのだった。
[希望を信じたいから]
「なんか今日は酔いが早いなあ」と佐和子が言った。
ほんとだ。いつもはいくら飲んでも顔色が変わらないのに、少し目の周りが赤くなっている。
「疲れたんでしょう。早く寝ようか」と私は言ったが、佐和子は「でもまだこれだけ残ってるもん」
嬉しそうな顔をしてワインのボトルを掲げる。
そして、細長く切った黄色いパプリカをぽりぽりと食べて、「ほんと、美味しいよね。肉厚で、ジューシー」と言った。
私は歯ごたえと味がプリンスメロンに似ている、と言い、佐和子がそれに反対し、ひとしきりパプリカについてあーだこーだ、と言い合った。
その軽いノリのまま、私は佐和子に言った。
「ねえ、また、聞いてもいい? けっこう根本的なことかもしれないけど」
口をもぐもぐさせながら佐和子がうなずく。
「あなたはなぜ神を信じるの?」
尋ねた後で、ああ、これはずっと聞きたかったことなのだ、と思った。
佐和子は「すごい質問だ」と言ってしばらく考え、それから言った。
「希望を信じたいから、かな」
希望・・・。
「わたしは希望をもってひとすじの光のように生きる人間になりたいなあ、って思ってるから」
私はうなずき佐和子は続ける。
「生きることはたいへんで、それは十分承知していて、でも生きるなら、どう生きたいか、って思うじゃない?」
「そうね」と私。
「草木が光を目指して必死に芽や枝をのばし、それをささえるために地面にしっかりと根をはりめぐらしていく、そんな人間になりたい、んだな」
「そうだね・・・。私には根がないから根を生やさないとダメだわ」と私は言った。
「わたしなんて芽や枝ものばしてないのかも・・・」と佐和子は笑う。
そして真面目な顔になって、
「2000年前に実在したであろうイエスという人物は、神の子であろうがなかろうが、そんな人間として生きたと思う。それは美しいと思う。そういう生き方に添いたいと思う。だから彼の言葉を信じたいと思う。
宗教っていうのは、元々人間がよりよく生きるために創造したものだろうし、神というのも、ある存在に「神」と名付けて、そこからいろんな解釈が生まれて、いろんな宗教があるのだと思う。
神をどう考えるか、まだよくわからないし、日々考えが変わる。
ただね、信じられるから信じるんじゃないんだよね、信じたいから信じるんだよね。
何を信じたいのかっていえば、神っていうより、人間かな。
神という存在をみつけた人間っていうか、イエスという他者を愛しきった人間というか。・・・ってことかな」
佐和子の言葉は、驚くほどすんなりと私の中に入り込んできた。
キリスト教、イエス、神。
そういった言葉にどちらかというと拒否反応を見せていた私が、なぜ・・・。
それはおそらく、人間を信じたい、という佐和子の気持ち、そのものが、私が信じたいものであったからだと思う。
ひじょうに、人間的だ。
人生を真摯に見つめる佐和子という一個の人間から生まれてきた想いだ。
私は、なぜ神を信じるのか、という私の問いに対して、このような表現で応えるようになるまでの佐和子の葛藤の歴史を想い、涙しそうになった。
だから、うんうん、とひたすらうなずいていた。
佐和子は私のグラスにワインを注ぎながらぼそぼそっと言った。
「海の上に立つマリア像も、美しかったよ」
<佐和子。この帽子のおかげで人ごみでも発見できた>