◎Tango アルゼンチンタンゴ 私のブエノスアイレス〜タンゴ紀行〜
■私のブエノスアイレス*15(最終回)■
2018/12/13
ブエノスアイレス最後のミロンガ「ラ・ヴィルータ」、DIVAで購入したブルーのエナメルのシューズをはいた。
でもシューズなんて誰も見てくれない。見られない。
とにかくフロアには人がいっぱい。いっぱいすぎる。こんななかでどうやって踊るの? ってかんじ。
日本で先生が言っていた「ぶつかるのなんて当たり前、戦闘ですね、場所確保のために、エルボーですよ」が、けっして大げさな表現ではないことがよくわかった。
ほんとに、ぶつかるのが当たり前。日本だったら、ちょっとぶつかったり、ちょっとけっちゃったりするだけで、ごめんなさい、ってなるのに、ここではそんな人いない。
(*「ラ・ヴィルータ」、ネットから拝借。そう、こんななの)
どんなに混んでいても、ぶつかっても、なんでも、私はとにかくたくさん踊ろうと思った。
これで最後になるかもしれない、と半分くらい本気で思っていたから。
あまりにも濃密なブエノスのタンゴの電流を流され続けて、ショートしちゃっていて、私、タンゴやめちゃうような気がする、ってお友だちにも、しつこいくらいにつぶやいていた。
胸に秘めていると、それがほんとうになってしまうようで怖かったのかもしれない。言葉にすることで、冗談っぽく言うことで、怖れを薄めたかったのかもしれない。
だから、先生にも、そんなことを言ってしまっていた。先生はそのたびに、「それは、覚悟の上です、路子さんをブエノスに連れてくるってことは、そういうことだって、わかっていましたから」って内容のことをまじめなかんじで言った後に「でも、そんなにシューズを買っておいて……」と、からかうのを忘れなかった。
たしかに、って私は笑っていたけれど、でも、自分がわからない、もう、なんにもわからない。
ところで、日本から一緒に行ったお友だちの女子は、ここでもすごかった。彼女はどこのミロンガでも誘われっぱなしだった。男がほおっておかない、ってこういうこと。
どうしてえ? とは思わない。彼女と踊りたくなる男性の気持ちが私には理解できた。私にないものをもっている彼女がまぶしくて憧れた。色気? それもある、けれどそれだけではない。柔軟で豊穣な包容力が目にみえるくらいにあふれている。踊りたくもなるでしょう。つかのまのひとときをともに過ごしたくなるでしょう。
でもなんといっても、彼女は「踊りたい」と思っていた、と思う。
踊りたい、っていうきもち。それがどんなふうにあらわれ、どんな現象をおこすのか、私は目の当たりにした。
私はといえば、ミロンガ恐怖症ピーク状態だったので、知らない人とは踊らなかった。
踊りたい3人の男性とだけ踊った。
このミロンガを最後にまた3か月会うことができないお友だちと、またね、元気でね、って想いを胸に、一曲一曲のなかにともに埋没した。
ずっとそばにいてくれて、たくさん踊ってくれたお友だちには、「ブエノス最後の夜。倒れるまで踊りたい、脚がこわれてもいい」って、いま書いていて赤面するような、自己陶酔的セリフを真顔で言って、実際たくさん踊った。
そして先生とも2タンダ、踊った。
***
1タンダ目、踊り始めたとき、2年前のあの日のことが、ぐわーっとよみがえって私を襲った。
2016年8月3日の夜のことが。そう、先生にリードされて、なんにもわからないまま「タンゴをはじめて踊った」あのときのことが。「タンゴ記念日」としている、あの日のことが。
あのときは、2年後にブエノスアイレスに来て、ミロンガでこうして先生と踊っているなんて、想像もできなかった。
あれがすべての始まりだった。そして私は先生に導かれて、ここにいる。人の海にのみこまれそうになりながらも、先生のうっとりリードで踊っている。
胸にこみあげるものがあって、困った。でも、もう、どうにもならない。感情の栓はとっくにはずれてしまっている。
私は先生にひとことだけ言った。
「はじめて踊ったときのことを、思い出しちゃいました」
そう、このひとがいなかったら、私はここにいない。ありがとうございます。あなたのタンゴが私は好きだから続けられたし、ショートして丸焦げになってはいるけれど、おそらく、とんでもなく貴重なことを体験できている。
ぼろぼろ泣く、というのではなく、ずっと目に涙がにじんでいる、そんな状態で1タンダを踊った。
2タンダ目を踊ったのは数時間後だったか。
「ブエノスアイレスのラストタンダ、踊りましょう」
って先生は誘ってくれた。
たくさん踊っていて、身体は熱くなっていて、足はじんじん痺れていて、そして私は先生の言葉に、またぐっときながらフロアに出た。フロアに出た、っていうか、人混みのなかに身体をねじこんだ。
そして、先生とのブエノスアイレス・ラストタンダ、踊り始める前に先生が私の耳元で言ったことを私はぜったい、忘れない。
先生は声を大にして耳元で言った。
「路子さんは、もうそう思っているでしょうけど、自分を世界一の女だと思って。こんな状態のミロンガではもう上半身のはったりなんです。足元なんかどうでもいいから、とにかく、私は世界一の女だと思って踊ってください」
私は一瞬、言葉を失った。ほんとに失った。
え。
まず、「先生、私、自分を世界一の女だと思ったことも、そう思いながら踊ったことも、皆無です」。
それに、上半身のはったり、って……。足元なんかどうでもいい、って……。
この2年間、ずーっと、基本の基本をたいせつに、って指導を受けてきた。インナーマッスル、胸からの動き、そして足元の動き、とにかく派手なことをするよりも、できることを丁寧に。そう指導されてきた。カミナンド(歩くこと)がどれだけ大変なことなのか、毎回のレッスンで思い知らされている、いまでも。
私は、そんな先生の教えを、レッスン中はできるかぎり集中して、そう、先生の教えを身体にきざんできたつもりよ。
そして先生のタンゴ、先生の美しい動き、美しいステップに、見惚れている、いまでも。
そして4日間連続で受けたシルビアのレッスン、吐息が足先まで伝わるような、あの動き、それを可能にするために必要なあんなことこんなこと。
なのになのに。
先生。
上半身のはったり、って。足元なんかどうでもいい、って。世界一の女、って。
言葉も失うというものでしょう。
けれど、私、言葉を失ったあと、猛烈なよろこびに身体がはちきれそうになった。
わーい、足元なんかどうでもいいんだー。気がラクー。
じゃなくて。
先生の言葉は、「ラ・ヴィルータ」の、窒息しそうなフロアで聞くにもっともふさわしい、もっとも美しい言葉だったからだ。
あれだけ基本をたいせつにしている先生が言ったあの言葉には、私がタンゴにもとめる核みたいなものがあった。
私は何も言わないまま、ただうなずいて、先生と踊った。
もちろん、私は世界一の女、って思って踊った。その気になるのは得意だから、すぐにそんな気がしてくる。
私は踊るときは目を閉じているし、先生はたぶんエルボーしながら私をリードしてくれているから、私は守られていて……、いいえ、もう、周囲のことなんて何も感じなかった。
私は夢心地で、すっごく気持ちよく、先生とのブエノスアイレス・ラストタンダを踊った。甘やかなタンゴだった。
おそらく、こんなふうなのは、この場所、このときだから、というのもわかっていた。あらゆる条件が整ったときだけに訪れる奇跡的なタンゴ、というのはわかっていた。
だからもう何も考えない。
私は世界一の女。世界一の男と踊っている世界一の女。
……。
あとになって、あらためて考えたことを覚えている。
世界一の女と思ってください。って誰の目を意識しているのだろう、って。
周囲の目? 周囲からすごい、って思われるため?
そうじゃない。自分とパートナーのためだ。ふたりのためだ。そのときを最高のときにするため、そのときのベストのタンゴを踊るため、ふたりが極上の気分になるためだ。
先生のタンゴに惹かれる理由がひとつ、はっきりと見えた。
ラストタンダのときのあの言葉には、<1>で書いた、私が初日に路上ダンサーたちに感じた「美しさとかステップとか、そういうことと程遠いところにある、そう、踊りとか、そういうことではない、タンゴが生まれたときの姿、あるいはタンゴが生まれた理由みたいなものの片鱗」があるのだと思う。
欲望とか快楽とか孤独とか恐怖とか争いとか見栄とか認証欲求とか……なんだろう、もう、これって人間の性(さが)って言ってしまってもいいかもしれない。
***
ブエノスアイレス最後の夜のタンゴ。「もう感情の洪水はとまらない」とメモに書いた夜。3人と踊ったラ・ヴィルータ。
みんな、これが最後、との想いを胸に躍ったと思う。
だからよけいにそれが強まったのかもしれないけれど、それぞれとのタンゴに、私は、ふたりだけで完結する世界、をたしかに感じた。
結局、朝の6時までやっているという「ラ・ヴィルータ」に5時半までいた。
文字通り、「もうイヤ」というほど踊った。思い残すことはなかった。脚の感覚はもはやなかった。
それでもタンゴは大音量で流れ続ける。人々は踊り続ける。
終わりのころ、喧噪のなか、お友だち男子が私の耳元で声を大にして訊ねた。
「路子さん、ひとつだけ質問してもいいですか?」
「なあに?」
「またブエノスに来ると思いますか?」
瞬間、ああ、私もそれを訊ねたかった、と思った。自分に。
もう一人のお友だち男子が、答えを聞こうと耳を寄せてくる。
私は両の手を、いとしいふたりの肩にまわして引き寄せて、それから目を閉じて、自分の言葉を待った。
「いまの気持ちはね」
うんうん、とふたりがうなずく。
私は目を閉じたまま、ふたたび、自分の言葉を待った。
「また、この場にいるような気がする」
自分の答えを自分の声じゃないように、聞いた。
***
(*ホテルチェックアウトのとき、ロビーで先生が撮ってくれた写真)
ブエノスアイレスから帰国して20日間、タンゴから自分を隔離して過ごして、「私のブエノスアイレス」を書き始めたのが10月17日。
今日が11月22日だからひと月以上が経過した。
このひと月の間にも、さまざな事柄による刺激があって、タンゴに対する想いも変化し続けている。
そして記憶も感動もすこしずつ風化しているのがわかる。
この旅行記は、もちろん、誰かに伝えたいという想いもあるけれど、なにより自分のために書いた。だからサービス精神不足だろうし、ある人にとっては、胸やけする部分もあるだろうと思う。
書けないこともたくさんある。自分だけにしかわからないやり方で行間にそれを綴った。
この旅行が、私の人生にどんな影響を及ぼすのかわからない。これをもとに作品を書きますか? と問われるけれど、それもわからない。
記憶が薄れないうちに書いておきたい、と思うのは物書きのさもしい業。そして書くという作業にはすでに創作が入っている。書かないことがある、ということだけで、すでに創作だからだ。
けれど創作をするなかで、自分を見出したかった。そのために私は書いているのだから。
ブエノスアイレスに行く前も、そしていまでもときおり、むしょうにタンゴが踊りたくなるときがあって、そんなとき、いつも頭に浮かぶ問いと答えがあって、それはいまも変わらない。
ーーーなぜ、踊るの?
ーーー踊りたいから。
同じ問いと答えではあっても、ブエノスアイレス後は「踊りたいから」という言葉に、開きなおりに似た図太い響きが加わったように思う。
(おしまい/ 2018.11.24)