●美術エッセイ『彼女だけの名画』20:ウィーン、大観覧車の「家族」
2020/08/26
薄いグレーの空が広がる3月のウィーン。
オーソン・ウェルズ主演の映画「第三の男」の舞台となった大観覧車に乗りたくて、石畳の道をプラーター公園へと歩いた。
夕暮れ時。
観覧車のチケット売り場前には5、6人の列ができていた。私の前には若い夫婦がベビーカーに子どもを乗せて並んでいた。レースのカバーの中を覗きこむとほんとうに愛らしい赤ちゃんが澄んだ瞳でじっと私を見つめた。
母親の女性が私ににこりと笑いかけた。穏やかな人柄を感じさせるその様子に温かな気持ちを抱きながら私はその家族をぼんやり見ていた。
それまで背中だけで顔が見えなかった父親の男性が煙草を吸うために列を離れた。彼は白い煙を吐きながら、ゆっくりと回る大観覧車を見上げた。その彼の横顔を見た瞬間、それまでの温かな気持ちが一瞬にして冷えた。
その横顔は、はっきりと退屈していた。
愛らしい子どもと穏やかな雰囲気の母親、煙草を吸う男性。
彼らはまったく別の世界にいるみたいだった。
彼は幸福ではないのだろうか。そしてベビーカーとともにいる彼女は、彼の様子に気づいているのだろうか。
どうでもいいことじゃないの。
と思いつつも気になってしかたがなかった。
そして、結婚相手のこんな横顔を見てしまうような結婚ならしたくない、そう思った。
脳裏に、オーストリア美術館で観てきたばかりの「家族」が浮かんだ。