▽映画 ブログ「言葉美術館」

■久しぶりのSNSとマリリンとカミュと

 

 ああ、そうだった。今日はマリリンの命日だった。と日付が変わる直前に思い出した。

 マリリンの言葉をインスタグラムに投稿しよう。

 そう思い立って、ずっと離れていたSNSの世界に戻ってみたら、私が忘れ去られている感つのらせている間も、多くのひとが私の本を紹介してくれていたことを知る。

 どれだけ励まさられるか。

 

 昨夜は「アルベール・カミュ」を観た。

 好きな作家の伝記映画。

 あんなにすごい作品を書いて、ノーベル文学賞受賞しても、痛みの多い人生だった。

 映像として見るとあらためて、カミュの痛みのヒリヒリ感を強く受け取ってしまって私もヒリヒリ。

 映画のなかで、私が好きな短編「転落」の好きな箇所が引用されていて、あの作品がどんな状況下で書かれたかもわかって、愛情関係にあるひとの傷、自分の傷、それを差し出さなければあのような作品は生まれないのか、とお腹の奥が重くなった。

 

「どんな映画にもフィクションがある。なぜなら主観が入ってしまい、他人の人生の深さを復元できる人はいないから」

 映画はこの言葉から始まる。監督の言葉なのかな。伝記映画を創るひとたちはみな同じ思いでいるのだと、私は思っていたけれど、違うのかな。だって、これをまず提示してから映画に入るということは。

 そして、この言葉はそのまま私の伝記的作品すべてにあてはまる。

 移住のあれこれに追われていたらいつの間にか梅雨が明け、夏が訪れていた。

 火曜日の夜、お友だちと見上げた月の美しさがいまも目に焼きついている。満月だったのね。

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