●美術エッセイ『彼女だけの名画』21:ルーヴル、洗礼者ヨハネの微笑
2024/01/12
「ルーヴル美術館に行くのだけど、おすすめの絵を教えて」
友人知人からそんな要望を受けたとき、私は専門家ではないから、と理りつつも、思いついたままにそのひとが好きそうな作品をいくつか挙げているのだが、私と似た感覚をもっていそうなひとに必ずすすめる絵というのがある。
レオナルド・ダ・ヴィンチの「洗礼者ヨハネ」。
とにかくすごいから。
と伝える度にこころで呟く。ほんとうにあれはすごかった……と。
朝の白い冷気につつまれた美術館の一角。それは不気味な静けさをたたえながら私を待っていた。
暗闇から浮かび上がる微笑。なんという微笑なのか。その瞳に思う。このひと、すべてを見透かしていて、誘惑している。
そして指先。魂をすっとすくいとり、そこに何があるのか、上方に導くかのようなその指先。
暗闇につつまれ、ぽっと白く浮かび上がる表情や肩、胸には実在感がまったく、ない。なのにこの抗い難い誘惑はいったい何だろう。
万能の天才と讃えられたレオナルド・ダ・ヴィンチは、その生涯で数多くの作品を生み出したが、彼が死ぬまで手放さなかった絵が3枚ある。「モナ・リザ」、「聖アンナと聖母子」、そして「洗礼者ヨハネ」だ。
聖書に登場する洗礼者ヨハネは、洗礼を授かろうと彼のもとを訪れたイエスをすぐに救世主だと見抜いた人物。
男性なのだけれど、この絵ではちょっと見たかんじ、性別は曖昧だ。
モデルはサライ(小悪魔)と呼ばれた、派手で悪賢い泥棒少年。
ダ・ヴィンチは38歳のとき、ミラノで出逢ったこの美少年(当時10歳!)の虜となり、彼をずっとそばに置き続けた。
同性愛は当時の芸術家としてはめずらしくない。ダ・ヴィンチが活躍した時代、いまから約500年前のルネッサンス期の芸術家には同性愛者が多い。ボッティチェリもミケランジェロもそうだった。
理由のひとつとして、よく言われるのが、当時流行した新プラトン主義で、なにより真実の美を追求する精神を重視したから、「精神的愛である同性愛」は異性との愛より崇高なものと考えられていた、という。
そんなことを思い出しながら、私は絵を観続けていた。
ふとヨハネの瞳に「性の匂い」を感じた気がしたけれど、それは一瞬で、絵のなかに入りこめば入りこむほど、その匂いは薄くなってゆく。
世俗の「恋愛と呼ばれるもの」やそれに付随する肉欲とかいったものをすべて超えたところにその微笑があるような気がしてくる。
気高ささえ感じる。性の匂いなんて、大きな勘違いなのかもしれない。いや、そもそも「精神的愛である同性愛」の意味がわからない。わからなすぎてくらくらする。
レオナルド・ダ・ヴィンチはここに何を描いたのか。モデルは美少年サライだとはいえ、なぜ「洗礼者ヨハネ」でなければならなかったのか。
わからない。
しだいに、こわくなってくる。洗礼者ヨハネの瞳にぐいっととりこまれそうになって、こわくなる。
朝の冷気がコートを通して素肌にふれる。体が震えて、自分の体を両手で抱きしめた。震えは冷気のせいだけではなかった。
***
*1996年「FRaU」の原稿に加筆修正したものです。
この絵は、この原稿を書いてから17年後に出版された「美男子美術館」のカヴァーになりました。
レオナルド・ダ・ヴィンチの「洗礼者ヨハネ」の章、あれこれと私なりの解釈を書いています。このエッセイでは「?」だった答えも、私なりに出しました。お読みくださったら嬉しいな。
ラスト、私はこんなふうに結んでいます。
「ダ・ヴィンチの絶筆、洗礼者ヨハネ。それはおそらく、ダ・ヴィンチが最期の最期に理想という名の絵具で描ききった、もっとも美しく、もっとも完璧な、自画像です。」
17年の月日のなかで、絵の解釈は変遷します。それが絵画鑑賞のおもしろいところ。