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■ピナ・バウシュとタンゴ

2023/09/10

 

 立ち止まって、考えて、それからまた読み始めて。そんな読書を久しぶりにした。

「ピナ・バウシュ 怖がらずに踊ってごらん」

 1940年、ドイツ、ゾーリンゲン生まれのコリオグラファー(振付家)、ヴッパタール舞踏団芸術監督、そしてダンサー。

 2012年に「ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち」を映画館で観て以来、ずっと気になっていたひとだ。

 でも私はいわゆるモダン・バレエには疎いし、気になりながらも、そして創作活動のなかで、ちらちらと姿を見せてくる(いろんなところでピナの名に出合う)にもかかわらず、放置していた。

 いま書いている原稿の関係で、私はこれからどんなスタイルを目指そうか、といったことを考えるなかで、ピナの姿が浮かんだ。山本耀司の服がいちばん似合うひとが私にとってピナだったから。

 そんな軽薄なところから、ピナのことをもっと知りたい、ってようやく思って、それで、本を探したのだけど、ほとんどなくて、この一冊を入手したというわけなのだが、あたりだった。

 著者のヨッヘン・シュミットはドイツの有名な舞台評論家で、ピナとの友好関係は長く深く、ピナの信頼が厚くて、伝記を書くことを許された。

 だから伝記を出版するにあたり、ピナの「検閲」を受けているわけで、その限界はあるし、内容も「作品」中心。ゆえに私のような無知な読者にとっては、難しかったりするのだけど、それでも、そのなかから見えてくるピナの思想は刺激的だった。

 この本が出版されたのは1998年。ピナ58歳。ピナは2009年6月30日に亡くなった。68歳。

 いくつか響いたところをメモしておこうと思う。

「興味があるのは、ひとがどう動くかではなく、何がひとを動かすのか、ということ」(ピナ)

 この言葉は、いまの私にぴったりだった。ダンスはもちろん、いま、このコロナ禍を生きていて、多くの茶番にうんざりしながらも、それでも、考えずにはいられない「なぜ」。まさに、ピナのこの言葉。

 

 ピナの舞台は観たひとを混乱させる。けっして心地よいものではない。排斥も受けた。

 著者は言う。

「(ピナの舞台を)愛せない人というのは、そこまで正確には知りたくないような、自分自身についての事柄を告げられるのが嫌なのだろう。その作品は、その存在自体を認めたくないような、ましてや自分の前につきつけられたくはないような、深層を揺さぶり、刺激するからだ。」

 まさに私のこと。さらに言えば、私は、ダンサーたちが表現していることの意味を自分の頭で考えるのが億劫なのだ。だから苦手だということにして、遠くに置いておく。「わかりやすい」もののなかで安住しようとしている自分の姿を突きつけられた思い。怠慢すぎる己の姿。

 さて。著者はピナの創作について、キーワードをふたつ挙げている。

 ひとつが「不安」。

 でもそれは、「何かしようとするときに体を麻痺させ能力をなくさせてしまう、あの不安ではない。そういうものがあるとするなら、それは創造的な不安」なのだ。

 創造的な不安……

 どんなに成功しても、どんなに世界中から賞賛を受けても、新作を発表するたびに「失敗へのむき出しの恐怖で満たされた深いトンネルをくぐって」行かなければならない。

「なんとかなる。もういくつもの作品をつくりあげているのだから、と言い聞かせても何の役にもたたない、不安はいつも同じなの」。

 毎度のことながら図々しく、私もおなじです、とこころでつぶやく。

 

 そして、「愛されたいという強い願望」。

 これについては、ピナ自身が「創作やダンサーたちとの仕事のブレーキであり、かつモーター」なのだと言っている。「それはプロセスだからなの。愛されたいと思うこと、それはたしかに原動力」、「私が一人でいたら、違っていたかもしれない。けれどいつだって誰かと関わっているのだもの」。

 そうなのよね。誰かと関わらずには生きてゆけない。愛の色彩はそれぞれでも、やっぱり私には愛されたいという強い願望がある。愛されたい愛されたいばかりではなく愛したいわ、って言いつつも、やっぱりある。

 

 そしてそして。

 この本を読んだ最大の収穫は、ピナとタンゴの関係を知ったこと。

 ピナとタンゴ!

 ラテン・アメリカをまわる公演旅行のさい、「アルゼンチンでタンゴの音楽と文化に惚れ込み、戻ったらタンゴ作品をつくろうと決心」して、実現させた。1980に初演された『バンドネオン』。

 タンゴをまずは習得しなくてはならない、とピナは「アントニオ」という名のダンサーにドイツ、ヴッパタールでタンゴレッスンをしてもらう契約をブエノスアイレス滞在時にとりつけていた。

 そしてアントニオがヴッパタールにやってくる。そして舞踏団のためのレッスンをする。彼らは食事に出る。レストランで酔いがまわってくるとアントニオは立ち上がり、ダンサーたちのひとりを誘い踊り出す。それが噂になり、ダンサーではない一般のひとたちがタンゴを習いたい、と言い出して、プロとアマチュアのひとたちが混ざってアントニオにタンゴを習ったのだという。

 そしてアントニオが故国に帰ってからもタンゴへの熱狂は続いた。ピナは言う。「80年代はじめからヴッパタールはまさにタンゴ場になっているの」。

 ねえ。

「アントニオ」って誰。

 この本にはフルネームがなくて「アントニオ」としかない。ウエブ検索してもわからない。気になりすぎる。

 それにしても、観たかった。ピナの「バンドネオン」。

 この舞台はブエノスアイレスでも上演されて、そこでこんな賛辞を受けた。

「タンゴの何たるかを本当に理解している」

 ピナは言っている。「もらった褒め言葉のなかで一番うれしかったわ」。

 そんな舞台を観たかった!

 観たかった観たかった観たかった。

 2004年の日本公演、なぜ私は行かなかった。いったい何をしていたのよ。こたえ。軽井沢にどっぷりつかっていました。ああ、あのころか。無理もないなあ。娘はまだ5歳、そして私は家づくりの最中か、終えたころか、まあ、そんな時期。ピナの公演なんて、はるか遠い世界の話だったころ。

 ピナ・バウシュ、バンドネオン、日本 とかで検索すると、「バンドネオン」を観た羨ましいひとたちの記事が出てくる。

 やはり、ほとんどダンスはなく、そんななかでどのようにアルゼンチンタンゴ を表現したのか、興味は募る。

 音楽については、「ほとんどカルロス・ガルデルの音楽しか使わなかった」とピナ。

 

 そろそろ指が疲れてきたから終わりにしよう。

 最後にもうひとつ。

 これは「バンドネオン」の舞台にかぎらず、ピナの舞台すべてについての言葉。

「ステップが私たちの仕事で最も重要だったことなどない」

***

*ピナの過去記事:踊り続けなさい

*ピナの過去記事もうひとつ:強烈に不在している。

★ピナがミロンガでアルゼンチンタンゴ を踊っている映像見つけました!
ほんとに一瞬だけど、何度も観ちゃう。

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