★絶筆美術館2:ルオー『サラ』
ルオーは一八七一年、パリに生まれた。
ピカソより十歳年上、セザンヌより三十二歳年下。
「真の芸術作品には、熱烈な告白がある」
ルオーのこの言葉はつねに私のかたわらにある、座右の銘といってもいいくらい、大切な言葉だ。
この言葉にふれたとき、頭ではなく、なにか身体の真ん中が反応した。本物だ、本質がある、そう思った。
そして「熱烈な告白」がなくなったとき、創作上の死が訪れるのだと、畏れながら私はほとんど切望した。
この言葉から離れたくない、離れてはいけない。
そして、このような絶対的な言葉を残した画家の絵は、やはり私にとって特別な絵であった。
好きな絵の好みは、人生のシーズンによって変わるときもある。けれど、ルオーは違う。私の精神状態、体調、興味の向いている先がどうであれ、いついかなるときでも、ルオーの絵の前を素通りすることができない。
よく知られるようにルオーは敬虔なキリスト者であって、私はそうではない。けれどもそういう、宗教といったものを超えたところにある祈りのようなもの、人間に対する希望のようなもの、信じたいもの、そういうものがルオーの絵に、あるいはルオーがなそうとしていたことのなかにあるようで、心惹かれる。
そんな特別な存在だから絶筆についても、ちょっと気のきいたことを書いてみたいと思うのが人情というものだが、おそらくルオーほどその絶筆について語ることが難しい画家はいなくて、かつ、彼の場合、困ったことに絶筆について語ることがナンセンスでさえあるのだ。
それでもルオーの絶筆について語ってみようと、いま、無謀にも試みるのは、矛盾するようだけれど、絶筆について語ることがナンセンス、ここにルオーの魅力があるからだ。
というわけで、ナンセンスと言いつつも絶筆を一枚選ぶ。
『サラ』。
ルオーが八十七歳で亡くなったとき、アトリエにあった一枚だ。
サラは旧約聖書の「創世記」に出てくるアブラハムの妻。とは言っても、『サラ』というタイトルは次女のイザベルさんがつけたという。ルオーは最初からタイトルを決めて描いたのも、もちろんあったけれど、そうでないものも多かった。
ああ、いい絵だなあ、としみじみと思う。じっと見ていると涙が出てくる。
サラの表情、なんという表情なのだろう。
輝き。美しい輝き。やわらかな輝き。光。すべてを、最後の最後には肯定し、しっかりと包みこむ、そんなやわらかなエナジーに満ちている。知らず知らずのうちに引き寄せられ、その胸のなかでその腕のなかで安らぎたい、そんなふうに切望してしまう、そういう絵だ。
ルオーの作品の証明のように、絵具が塗り重ねられて、画面が厚く盛り上がっている。
ルオーは自分が納得するまで飽くことなくキャンバスに絵の具を塗り重ね、そしてどんなに塗り重ねても、ルオーにとって作品が「完成」することはなかった。
絶筆を語ることがナンセンス、という理由のひとつはここにある。なにしろ「完成」がないのだから。
そもそも画家にとって完成とは何か。
たいていは、サインを描いたとき、となるのだろう。いまひとつ納得できていなくても、締め切りなどがあり、その時点をもって完成、ということにするしかない、ということもあるのだろう。
しかし、ルオーは違った。
どのように違ったのか。そのことをよく物語るひとつの事件があるので、その事件について語りたい。「自作焼却事件」だ。
■自作焼却事件
ルオーの画家人生に欠かせない人の一人に画商のヴォラールがいる。
彼はセザンヌやルノワールを見出したことで知られるように、無名の画家に目が利く才能のある画商だった。
このヴォラールがルオーの才能に惚れこんで二人の間で契約が結ばれたのが一九一七年、ルオー四十六歳のときだった。
どんな契約だったかといえば、ヴォラールがルオーの専属画商となること、それとひきかえにルオーの生活を保障するというものだった。
しかし、ルオーは「永遠に完成することがない」作品を創作する画家だ。
それを知っていたヴォラールは、それでは商売にならないからと、こんな取り決めをした。つまり、ルオーがサインを入れたものは完成品と見なしヴォラール画廊の商品となる、というものだった。
ルオーも画家として生活してゆかなければならない。妻もいれば娘二人もいる。ルオーは仕方なく、ヴォラールの要求に応じてサインをしていた。それでもチャンスがあれば取り戻して、サインをいったん消して、手直しを続けた。
催促も、もちろんあったし、半ば強引な注文もあった。ルオーはヴォラールの画商としての才能は認めつつも、そのやり方には反発もあり、二人の間には確執があった。
けれど、お互いにお互いが必要であった。それは確かだ。
事件は、一九三九年、契約が交わされてからおよそ二十年後、ヴォラールが交通事故で急死したあとに起こった。
ヴォラールの自宅からサインのないルオーの作品八百点あまりが発見され、この絵をめぐってルオーとヴォラールの遺族との間で訴訟が起こったのだ。
ヴォラールが生きていたときには、ヴォラールとの約束によって、それらの作品にはいつでも手を加えることができた。
けれど遺族はそれらの作品を売ろうとした。
ルオーにしてみれば、未完成のものを売るなんてできない。
ということで、裁判になった。
裁判所の判決はルオーの主張を認めるものだった。
「美術作品の完成、未完成を決定する権利と能力は作者のみにある。よって、すべての作品はルオーに帰属する」。
勝訴したルオーの手元に八百点あまりの作品が戻ってきた。
ここまではいい。問題は、この先だ。
ルオーは戻ってきた作品のうち、三百点あまりを自分の手で焼却したのだ。
なぜか。
人生の残りの時間をすべて使っても、すべての未完成作品を完成させることは不可能だと判断したからだ。そしてルオーにとっては、未完成作品が世に出回るくらいなら焼き捨てた方がましだった。
焼却炉に一枚一枚自分の作品を放りこんでいるルオーは機嫌がよく、微笑みさえ浮かべていたという。これは焼却処分のとき一緒にいたルオーの次女イザベルさんの話なのだが、彼女は次のようにも言っている。
「父が訴訟まで起こしたのは、自分で納得できない作品が市場に出るのが耐えられなかったからであり、燃やしてしまえばその心配はなくなる。だから心底ほっとしていたのでしょう。」
ルオー七十七歳のときのことだった。それからルオーは十年生きる。
■ミセレーレ
絶筆からすこし話は離れるけれど、ヴォラールの話の流れで、『ミセレーレ』を語りたい。
これは版画集で、ヴォラールの提案で始められた仕事だった。結果的にすばらしい仕上がりで、現在では二十世紀版画史上、不朽の名作と言われている。
「ミセレーレ」はラテン語で「憐れみたまえ」を意味し、ルオーのほかの絵画と同様キリスト教色の強いものだが、ここにもまた普遍があり、孤独、哀しみ、富める者貧しきもの、傷ついた兵士、娼婦、道化師、そして人間の罪を一身に背負うようなキリスト……、すべてへの慈しみがあふれていて、心ゆさぶられる。
ルオーの油彩を見ているからか、ほかの作家の版画よりも、ずっとずっとずっと厚みがあるようで、ずっしりとしているように見えるのが不思議だ。
尋常ならざるルオーの祈り、想いがこめられているからか。
それとも、版画だからモノクロなわけだけれど、ルオーが「色彩の王者」と呼んだ黒、この使い方に秘密があるのか。
だから、こんなに迫るような重厚感があるのか。
理由はわからないけれど、ほんとうに心に迫る版画集だ。
ヴォラールは結果的にルオーにとって理想的な画商だったと言えるだろう。
ルオーが四十代の半ばになるまでルオーの作品を本格的に紹介しなかったこともよかったのだと思う。
なぜなら、ルオーの師であるギュスターヴ・モローは早くからルオーの才能を認め応援していたが、ルオーの純粋さ、妥協のなさ、世渡り下手なことをよく知っていたから「君はなるべく遅く成功してほしいと思っている」と言っていたのだ。
それを知っていたわけではないけれど、ヴォラールは早くからルオーを世に出さなかった。
モローはルオーより四十五歳年上、ルオーが二十七歳のときにモローが死に、ルオーは悲嘆にくれる。
そしてモローは不器用なルオーを心配して、その遺言に彼の全財産である一軒家を個人美術館としてパリ市に寄付すること、館長をルオーにすることを明記していた。自分の死後ルオーが経済的に苦労することがないようにとの師の想いだった。
パリのモロー美術館を訪れると、いつも私はこの物語を思い出し、胸が熱くなる。
■シャルトルのステンドグラス
それにしても、いったい、そこまでして、ルオーが描きたかったもの、遺したかったものとは、どんな芸術作品だったのだろうか。
私は、それは、ひとことで言ってしまえば、シャルトル大聖堂のステンドグラスのごとき作品だったと思う。
ルオーは家具職人であった父親の影響を強く受けていると言われる。ルオーの、頑固で念入りな仕事ぶりはまさに職人のそれだった。
また、ルオーは少年のころ、ステンドグラス工房で徒弟奉公の経験をしている。
このときにアトリエで修復中の中世のステンドグラスの破片を見て、その美しさに心を強く打たれた。そして、その「純粋な美」は、ルオーのなかに、強烈に刻印された。
ずっとあとになって言っている。
「もしも中世のように美しいステンドグラスがあったなら、私はおそらく画家にはならなかったろう。」
だからルオーはずっと、そう、生涯にわたってずっと、中世のステンドグラスがもつ「純粋な美」を追い求め、それを創りだそうとしていたのかもしれない、私はそう思っていた。
そしてパリから南西八十七キロのシャルトルにある、ステンドグラスが有名な大聖堂を訪れたとき、それは確信に変わった。だって、その空間は私のイメージのなかのルオー・ワールドだったからだ。
大聖堂に入った瞬間、この世ではない空間に入ったかのようで、ぐわっとめまいがした。
とくにブルーがすごい。その神秘的な美しさゆえに「シャルトル・ブルー」と呼ばれるというのがよくわかる。それが、歩いても歩いても終わらない。壁面、天井ぜんぶステンドグラスだったのではないだろうか、と今思ってしまうほどに、その存在は圧倒的だった。その美しさに、ただただ涙が出てくるという体験は久しぶりだった。
私が圧倒されたステンドグラス作品群は、中世ステンドグラスの完璧なコレクションの一つだ。そう、まさにルオーが感動した中世のステンドグラス。
そしてルオーは敬虔なカトリック教徒であり、シャルトルの大聖堂はカトリックの教会だ。
私はキリスト者ではない。
それでも、こんなに胸うたれ、涙まで浮かべている。
美しいものは、こんなにも人を圧倒する。うちのめす、と言っていい。だから危険だ。
こんなに美しいブルーの大聖堂でなら、何を言われても信じてしまうように思う。同時に、なんらかの啓示が与えられるのではないか、と期待する。
そして、そのときルオーを強く思った。
想像でしかないけれど、敬虔なカトリックであるルオー、そして彼がその美しさに強く胸打たれた中世のステンドグラス。
彼がなんのために終わらない制作を続けていたかがわかったような気がしたのだ。
■存在理由を知るために、受難の理由を知るために
ルオーの人生は八十七歳で亡くなるまでパリで妻や娘たちと過ごし、絵を描くことにその生涯のほとんどを捧げた、静謐な、そういう人生だった。
最晩年、死を前にして言った言葉は、
「労役人みたいに今日まで仕事をしてきたが、神様の前へ出たら、自分のしたことがよかったと言われるか、悪かったと言われるかわからない」。
ルオーは敬虔なキリスト教徒としてつねに神に向かって創作を続けていた。
あのゆきすぎとも思える、創作についての謙虚さは、そこに神の存在があったからだった。完璧な存在である神の前では、どんな作品であっても未熟に思えたことだろう。
彼はキリスト教の信仰が根幹にある絵を描き続けた。しかし天使や聖人は描かなかった。『聖顔』というキリストの顔は描いているけれども、娼婦、道化師、貧しい人たちを多く描いた。
これらの絵にはキリスト教徒としてふさわしくないという非難が浴びせられた。とくに娼婦の絵には。
けれど私には、ルオーは、キリストを描くのと同じような想いで彼らを描いていたように思える。
ルオーは彼らに、彼らの「受難」に共鳴していたのではないか。そして知りたかったのではないか。
彼らも、そして自分もまた、神の創造物であったなら、その存在理由は何なのか、この受難はなんのためなのか。
それを知るために描き続けたのではないか。
だから、自分自身の内面が成長すれば、考え方も変わるから、そのたびごとにそれを絵に反映する必要があった。
彼にとってすべての作品は自分とともに変容すべきものだったのだ。
だからほんとうならすべてを手元に置いて、永遠に加筆し続けていたかった。
こんな言い方をしたら陳腐になるけれど本当だからしかたない。
ルオーにとっては、ルオーが未完と言ってもそれを作品として見なすなら、すべてが絶筆だった。ここにこそルオー最大の魅力があると私は思う。
■凄く美しい絵
私が大好きな詩人、茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」という有名な詩、一番きれいだった若いときに戦争があり不幸だったという詩の最終連。
***
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
ね
***
この最後の、「ね」の位置が好きだ。
そして私は思う。茨木のり子がこのとき思い描いた「凄く美しい絵」って何だったのだろうと。
晩年の絵を何度も観る。そしてひとりで勝手に想像し決めつけている。
『サラ』をきっと茨木のり子はイメージしていた。
「凄く美しい絵」という表現にぴったりな絵というのはそうあるものではない。
絶筆の一枚として私が選んだ『サラ』。まさに「凄く美しい絵」。
すべてが絶筆と言いながらも、私はやはりこの作品が、ルオーが亡くなったときアトリエにあった一枚、ということにほっとし、なんともいえない安堵の気持ちが胸に広がる。
イーゼルにあったのではない。ルオーはイーゼルは嫌いで、大きな机の上にキャンバスを置いて、描いた。
ルオーはモデルを必要としない。鉛筆や木炭でのデッサンもしない。いきなり絵筆でキャンバスに物の形を描く。
「マティスはモデルを前にして描く、しかし、彼も、そのモデルを描いているのではない。あんな形や色の人間は、実在しないではないか。彼もまた空想を描いているのだ。モデルを前にして制作しても、モデルなしに描いても同じことだ。私は空想を描く、しかしだ、私の一本の線には数年の精進の成果が籠っている」
あんなに苦しんで苦しんで、どんなに描いても描いても完成には程遠く、ひたすら苦行者のように絵を描き続けたルオーが、死を身近に感じていただろうときに描いた女性の顔が、こんなに優しさあふれ、すべてを包みこむような微笑をうかべていることに、「凄く美しい絵」であったことに、私は、ほんとうによかった、と思うのだ。
ルオーはその生涯を通して、その厚い信仰のもと、絵筆を動かし続けた画家だった。
神に向かって、自分がこの世に生まれてきた意味を、神がもとめていることはこれだと信じて絵を描き続けた画家だった。
その態度、絵を描く姿勢、これがあまりにも極まっているから私は胸うたれるのだ。
なにかを一途に想い、ほとばしるような熱情にかられて創作をするというその姿勢に、私はこんなに胸うたれるのだ。
まさに、そこには、疑いようもないほどに切実で、「熱烈な告白」がある。ここまでのことをしなければ真に人の心など動かせないのだ。
ルオーは人生の最後の最後まで描き続けることができた、そういう意味では幸福な画家だった。
糖尿病を患ってはいたものの、入院するほどの状態ではなく、最後まで自宅で制作を続けることができた。
高齢ということもあり、家族はルオーを気遣い、休ませようとしたけれど、これがルオーには気に入らない、「家族は静養しろと言うけれど、仕事をしないでは静養にならない、まだたくさんやらなければならないことがある」と言っていたという。
絵筆をもったまま居眠りをしていることも、よくあった。それでもとにかく絵筆を握り続け八十七歳で死んだ。
最後に色彩についてのルオーの言葉を紹介したい。
「画家にとって大切なことは、百もの色調を駆使することではなく、自分だけの歌のためにハーモニーのある色調を、いくつかもつことです」
人生そのものの真実を語った言葉だ。
了