★西洋絵画のスーパーモデル ブログ「言葉美術館」 路子倶楽部
★西洋絵画のスーパーモデル:6「セイレーン」
2023/12/28
■水の精セイレーンの歌声は、官能の海で、魂を解放する■
一年が慌ただしくめぐり、また水の季節がやってきた。
夏。ひとびとは何を求めて海へと急ぐのだろうか。冒険、スポーツ、癒し、恋愛、快楽?
今回は海を意識して、セイレーンを選んでみた。ギリシア神話に登場する海の魔女である。
上半身は女、下半身は鳥の形をした怪物といわれるが、しばしば人魚と同一視される。
その甘い歌声で船乗りたちを引き寄せ、命を奪う危険な女。
サロメやリリスと同じように男を破滅に導く「ファム・ファタール(宿命の女)」として、さまざまな画家たちによって描かれてきたが、なかでも私はこの絵が好きだ。
エロティシズムの画家、クリムト の描いたセイレーン。
なんて妖しいその姿。くねった曲線、淫らな表情、水の抱擁に身をまかせながらも、その姿は実に挑発的だ。
さて、セイレーンを語るならば、その「歌声」に注目すべきなのだろう。なにしろ私たちがよく使う「サイレン」という語の語源でもあるのだから。
けれど私は、歌声よりもむしろ水、あるいは海そのものに注目してしまう。なぜなら、セイレーンのエロティシズムについて考えたとき、夏のギリシアの海、あの体験を思い浮かべてしまうからだ。
***
ギリシアの小さな島、ミコノス島。欧米のヤング・エグゼクティブ・ゲイたちが好むリゾート地として有名な美しい島に「スーパー・パラダイス・ビーチ」がある。
私は2年前の夏、恋人とともにそこを訪れた。
海はまったく、言葉を失うほどに美しいエメラルド・グリーンだった。
私は自分が泳ぎが苦手なことも忘れて、そのなかに飛びこみ、水平線をめがけてどこまでも泳いでゆきたい衝動にかられた。興奮のあまり、妙な声を出してしまい、恋人に笑われた。
そこはヌーディスト・ビーチだった。
私は少しためらい、それでも水着をとって海へと入った。肩がつかる程度のところで軽く泳いだ。
強い太陽の光、透き通った水、白い砂、そして、なんともいいがたい、柔らかで……解放的な快感。
裸で泳ぐことがこんなに官能的だなんて。
私はゆらゆらとしながら、陶然と自分の腕や胸を見つめた。
そして次第にからだの奥に強い欲望がわきおこるのを感じた。
欲望。
それが浜辺で寝転ぶ恋人に対するものであったなら、なんてことのない話だ。
けれど驚いたことにそれは、私の周囲で思い思いに海を楽しんでいる見知らぬ男たちに向けられていたのだ。私は彼らと快楽をともにしたいと願っていた。それはおそろしく衝動的でおそろしく強いものだった。
水のせいだ、と思った。
***
だから、セイレーンの妖しさ、エロティシズムはきっと水にある。水のもつ根源的な力によって彼女たちのエロティシズムは芳香を放つのだ。
と考えれば、私たちは本来は、もっともっとエロティックな存在なのかもしれない。羊水のなかで命を育んできた過去をもつのだから。そう! 抑圧されているだけなのかもしれない……なんて思えば、夏の海が楽しみになる。
フリー・セックス奨励ではない。
ただ、欲望をもつことはそれがどんなものであるにしろ、恥ずべきことではないし、それがない人生のほうが恥ずべきこと、と私は思うのだ。
***
◆「セイレーン」伝説◆
ギリシア神話に登場する海の魔女。
ーー英雄オデュッセウスは一行を率いて故郷を目指して海原を進んでいた。次第に恐るべきセイレーンたちの島が近づいてきた。その甘い歌声を聞いてしまったら最後、命を奪われるのだ。
オデュッセウスは前の島での忠告にしたがって部下の耳をロウでふさぎ、自分の身をマストに縛りつけて、なんとか無事に通過したーー
多くの画家はセイレーンを人魚のように描いている。クリムトはセイレーンに世紀末的な妖婦のイメージを重ねた。
*絵のタイトル「水魔(水の精)」
*画家:グスタフ・クリムト(1852-1918)
1862年、ウィーンに生まれる。19世紀末ウィーンの前衛芸術家のグループ、「ゼ・セッション(分離派)の中心人物。
絢爛たる美、エロティシズム、退廃的な雰囲気に彩られた彼の絵は当時の人々に強烈な衝撃を与えた。温厚で人づきあいもよかったが、自身の芸術については多くを語らなかった。
*1999年の記事です。
◆現在の感想
ミコノス島、いまでもよく覚えています。文中では「恋人」と表現していますが、結婚しておよそ半年後に訪れたギリシアですから、いわゆる新婚旅行なるものかもしれません。「きめごと」が嫌いな私たちは結婚したら新婚旅行へ、というのも拒絶していたのでした。
ビーチで裸になったのは本当。きもちよかった。でもゲイのひとたちばかりなので、誰も見てくれませんでした。
ヌードな男性がたくさんで、私にとってもスーパー・パラダイス・ビーチでした。サングラスをかけ視線がわからないようにして、じっくりとこころゆくまで、観察をしたことは言うまでもありません。