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○女性芸術家8「シュザンヌ・ヴァラドン」

2023/12/28

 

■シュザンヌ・ヴァラドン(1865.9~1938.4)

*「自画像」1883年(18歳)これが処女作といわれています。

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 「芸術倶楽部」の連載でヴァラドンをとりあげたのですが、いま読み返してみると、あまりにもだめなので、『美男子美術館』で書いたヴァラドンの記事にすることにしました。
 息子のユトリロの話が多いですけれど、ヴァラドンについてはこのときかなりお勉強したので、こちらを残したく。

 ただし、本から書き写したのではなく、編集者さんに送った最終原稿のコピーです。最終的な手直しをして本になっているので、その前の原稿ということ、若干、甘いかもしれません。書き写すの大変なんだもん(怠け者)。お許しください。

『美男子美術館』、忘れられた存在ですが、私はわりと好きです。いつか復刊させたいなあ。

 

 

 さて、それではシュザンヌ・ヴァラドンとユトリロのお話を。

*ヴァラドン『モーリス・ユトリロの肖像』1921年(個人蔵)

 パレットと、何本もの絵筆をもち、こちらをじっと見つめる強い視線の殿方。どうやら自宅でリラックスしながら絵を描いているもよう。リラックスモードだけれど、それでも強いまなざしに画家の自信がやどっていて、こちらは少し緊張して画家を見つめます。

 画家は、ユトリロ。パリ、白いモンマルトルの風景が有名な、日本でもたいへん人気のある画家です。

「ええ?! ユトリロですか? この時代の美男子とりあげるなら、モディリアーニでしょ!」という声が聞こえてくるのは気のせいでしょうか。いいえ、気のせいではありません。けれども、そりゃあ美男子の代名詞モディに比べればかすむかもしれないけれど、ユトリロってなかなかいい男なのです。それに、その人生もまた、なかなか面白い。彼はユニークな人生を生きた人です。

 この肖像画を描いたのは、ユトリロの母親、シュザンヌ・ヴァラドン。有名な女流画家です。ユトリロのユニークな境遇は、そのほとんどがこの母親によって作られたと言っていいでしょう。

 

 画家の母親と画家の息子。両方が後世に名を残すというのも、ずいぶん稀なことです。

 母と息子のお話しをしようと思います。

 まずは、シュザンヌ・ヴァラドンから始めましょう。このひと、とにかく強烈なのです。

■モンマルトルのミューズ■

 パリはいつでも芸術家たちの憧れの場所ですけれども、十九世紀末から二十世紀初頭にかけてはとくに、モンマルトルの丘がその中心でした。芸術を志す人たちは、野心に胸を熱くしてモンマルトルの丘を目指しました。

 ヴァラドンは、十九世紀モンマルトルの丘に集った画家たちのミューズであり、同時にその画家たちから手放しの賞賛を受けた才能ある画家でもあったのです。

 彼女は私生児として生まれ、貧しい家庭で育ちました。幼い頃から働き、お針子、サーカスの見習いなどもして、やがてモンマルトルで画家のモデルを始めます。何かのきっかけで彼女を発見した画家のシャバンヌが彼女をモデルに描き始めたことがすべての始まりでした。

 シャバンヌは五十代の後半、孫娘のような年齢のヴァラドンに夢中になり、おそらくモデル以上の関係にもなりました。当時、画家とモデルが肉体関係にあるのは当然のことでした。

 ルノワールも彼女をモデルに絵を描きました。有名な『都会のダンス』『ブージヴァルのダンス』は彼女がモデルです。

 ヴァラドンは小柄だけれども、濃い眉毛と意志の強そうな瞳に一種獰猛な美しさがあり、十代の半ばにはすでに男性から欲望のまなざしを注がれているような女性だったのです。

 モンマルトルを語るときには外せない画家ロートレックもシュザンヌをモデルに描きました。二人は画家とモデルを超えた濃密な男女関係にありましたが、二人とも気性が荒いので、激しい喧嘩は日常茶飯事でした。

 ちなみに、シュザンヌ・ヴァラドン、本名はマリー=クレマンティーヌ・ヴァラドンなのですが、ロートレックが彼女をシュザンヌと呼んだのです。

 これは聖書の物語で画題にもよくなる「シュザンヌの沐浴」からとったものです。沐浴していた若き人妻シュザンヌに老人二人がイヒヒと言い寄ります。けれどシュザンヌに拒絶されて逆ギレ、シュザンヌを姦通罪で訴えてシュザンヌは死刑になってしまう。なんてひどいのでしょう! けれど大丈夫。聖書ですからね、ちゃんと老人二人の罪が暴かれて老人二人は死刑になる。簡単に言ってしまえばこんなお話です。

 ロートレックは彼女が老齢のシャバンヌのモデルをしていたことから、この物語を連想して、彼女にシュザンヌというあだ名をつけたのです。

 もともと絵心のあったヴァラドンはシャバンヌやルノワール、そしてロートレックのそばでデッサンの腕をあげました。

 ある日偶然に彼女のデッサンを見て、その才能に驚いたロートレックはドガを紹介しました。ドガはすっかり感心して言いました。

「すばらしい! あなたは我々の仲間だ!」

 そして彼女の庇護者となり、徹底的に絵を教えこみました。

「画家シュザンヌ・ヴァラドン」はこうして生まれたのです。

(現在コメント*ちなみに、私はロートレックが描いがヴァラドンが好き。↓『美神(ミューズ)の恋』)でもとりあげています。)

*「酒を飲む女または二日酔い」ロートレック 1889年(ヴァラドン24歳)

 

■ユトリロの誕生■

 一方、「恋多きシュザンヌ・ヴァラドン」も日に日にその輝きを増してゆきます。彼女は自分の魅力を自覚していますから、そして積極的ですから、彼女が行く所行く所、殿方たちが群がるというたいへん羨ましい状況が生まれます。

 そんななか、十八歳のとき、彼女は男の子を出産します。これが後に「ユトリロ」として有名になる男の子です。

 けれど、いったい誰の子なのかはっきりしません。父親候補は片手では足りない。彼女がモデルとなった画家だけでも四人、ルノワール、ロートレック、シャヴァンヌ、ドガ。さらにジャーナリストのミゲル・ユトリロ、詩人のボワシー……などなど。彼女自身、聞かれるたびにいつも違う男性の名をあげていたし、「本当のところあたしにもわからないのよねえ」というのが本音のようです。

 ヴァラドンが生んだ男の子モーリスがユトリロ姓を名乗るようになるのは、一八九一年、八歳のときです。戸籍の記録にきちんとあるのですが、なぜスペインのジャーナリスト、ミゲル・ユトリロが認知したのかは謎です。

 とにかく、将来有名になる少年は、八歳のときに「モーリス・ユトリロ」となったのです。少年の話はもうちょっと待って、あと少し、ヴァラドンの話を続けましょう。面白いエピソードがあるので。

■エリック・サティの失恋■

 子どもを産んだあとも、ヴァラドンの生活は変わりませんでした。

 モンマルトルで奔放に振舞いながら、絵を描く毎日。息子は、自分の母のマドレーヌに託しました。子どもを産んで、さらに艶やかになったようで、殿方たちは彼女に夢中です。

 音楽家のエリック・サティもヴァラドンに恋をしました。

 ロートレックとの関係が終わったあとの半年程度の短い恋愛でしたが、サティは彼女に、かなり翻弄されて苦しみました。

 サティは、皮肉っぽくて、「俺が女に熱をあげるなんてありえないね!」 なんて言っていたのに、そんな彼が、すっかり夢中になってしまうのですから、ヴァラドンはいったい彼になにをしたのでしょう、と妄想してしまいます。……とてもつれなくしていたような記録は残っているのですが、詳細を知りたいところです。

 さて、サティ、ヴァラドンにさんざん翻弄されて別れた後も、彼女の不実を周囲の人たちに語り続けました(これって、「未練」そのものの行為ですよね、やってはいけないと思いつつもやめられないことの一つ……ああ、せつないです)。

 そしてサティはその後誰とも深くつきあうことはありませんでした。サティが死んだとき、遺品のなかから、ヴァラドンがかつて描いた彼の肖像画が発見されたといいますから、ほんと、泣かせます。

 ところで。サティが長い間ヴァラドンの不実をなじり続けていたのも無理のない話なのです。

 だって、シュザンヌはサティと別れて、サティの友人ポール・ムージスと結婚してしまったのですから。

 ムージスはお金持ちでしたから、ここにはヴァラドンの打算があった、と言われています。……言われるでしょうね、言われるんです。もしそこに強い愛があったとしても、二人の状況から、お金目当て、と言われるのが常なのです。世間って例外を認めたがりませんから。

 ただ、真相はわからないけれど、愛もあったのでは? という可能性を、私は残したいです。

 とにかく、この結婚のとき、シュザンヌは三十一歳。経済的に安定した生活を得て、以後十三年間、絵に打ちこむことになります。息子モーリスと母マドレーヌは、パリの北のほうの別荘に住んでいました。

■アルコール中毒の少年■

 さあ、次にユトリロ、まいりましょう。こういう母のもとに、こういう条件で生まれた子って、どのように育つのでしょう。

 母親の愛情に飢えて神経症になる、寂しさのあまりぐれる、モンマルトルのワルになる、自分はきちんとした社会人となりきちんとした結婚をするぞ、と母を反面教師にする、……それから? どんな道があるのでしょうか。

 ユトリロはどうだったかといえば、ちょっと変わっていて、母親の愛情に飢えていたというところは一般的なのですが、なんと十代の半ばでアルコール中毒になってしまうのです。

 きっかけは、幼年時から、祖母が与えたワインでした。ユトリロの不安定な性格に手を焼いた祖母が、最初はスープにワインを入れたのが始まりでした。

 やがてユトリロはアルコールを飲むと嫌なことを忘れられることを知り、日常的に飲むようになったのです。

「ユトリロの生涯には絵とアルコールしかなかった」と多くの人が言うように、ユトリロは幼いころからアルコールとのつきあいを始めたのでした。

 寂しかったのです。

 十三歳のとき、ユトリロは、一度も会ったことのないスペインの父親に宛てて手紙を書いています。元旦に書いているところが胸が痛みます。

「どうして家に来てくれないのですか? どうしてぼくのことを思ってくれないのですか? ぼくはとても不幸せです。ママンがいつもあなたは二度とぼくたちの所に戻らないと言うからです。今日お正月にこの手紙を書きながらぼくは泣いています……」

 学校でも問題行動をとり、なにをしてもうまくいきません。長ずるにつれて社会に適応できないことが明らかになり、奇行も目立ち始めます。

 幼年時代から祖母が手を焼いた性格が自分でもコントロールできないのです。そんな自分を誰よりも嫌っていたのはユトリロ自身でした。「いやらしい性格だ!」と嫌悪感を抱いています。そして罪の意識にもさいなまれ、結局、そうした苦しみを癒してくれるところへ行ってしまうのです。アルコールです。

 ヴァラドンと夫のムージスはアルコール中毒による脳障害の危険性を感じて、精神病院に入院させます。ユトリロ二十一歳のときでした。これは生涯にわたる精神病院とのつきあいの始まりでもありました。

 けれども、この入院は、ユトリロの人生にとって大きな事件でした。治療にあたった医師の言葉が、ユトリロにとって大きな転機となったのです。医師は、ユトリロが何に対しても関心をもたないことを指摘し、ヴァラドンに対して、デッサンを教えるように勧めたのです。

 人生って、これだからあなどれないのです。アルコール中毒の治療として始められた絵画への取り組みが、一人の有名画家を誕生させることになったのですから。

■モンマルトルといえば、ユトリロ■

 その後のユトリロは画家として成功しました。高い値がつけられて、有名人となりました。

 あの、独特の「白」。ユトリロの「白」。あの白の静寂さときたら言葉を失わせるエナジーがあります。白い沈黙に支配されたモンマルトルの小さな道、教会、サクレクール寺院へ続く道……。詩情にあふれています。

 モンマルトルへ行くといつも私はユトリロの描いたモンマルトルを探してしまいます。けれど、いままでに出会えたことがありません。いつもがっかりです。自分の目にうつる実際の風景よりもユトリロのモンマルトルが、私は好きなのです。

 何が違うのでしょう。きっと私の眼と画家の眼が違うのです。あたりまえですが、ユトリロには私と違った景色が見えていたに違いない。白い壁ひとつとっても、たぶん、見え方が違うのです。

 あとは、人の気配がないのも一つの要因かもしれません。ユトリロの描くモンマルトルには、人がほとんどいない。

 後年になって、風景のなかにお尻の大きな婦人たちが登場する時代もありますが、基本的に人物は描いていない。もしかしたらそのこともユトリロのモンマルトルを唯一無二のものにしている一つの要素かもしれません。

 母親のシュザンヌ・ヴァラドンが、力強い人物画を描いているのと、ほんとうに、対象的です。

 母親は人物画。息子は風景画。

 面影は似ているのに。とくに、目のあたりなんてそっくりなのに、絵は、まったく違います。

 さて、母と息子に話を戻しましょう。

 お金持ちのムージスとの安定した結婚生活を送っていたヴァラドンですが、激しい恋におちます。彼はヴァラドンによれば「あたしが愛したただ一人の男よ」です。

 それまでは母親がどんな行動をとろうとも、ユトリロにとっては「聖女」だった母。今度ばかりは少々様子が違います。

 なぜなら、母が恋におちた相手は、ユトリロの数少ない友人の一人、ユトリロよりも三つ下の男性だったからです。一九〇八年シュザンヌ四十三歳、相手のアンドレ・ユッテルは二十二歳、ユトリロ二十五歳のときのことでした。

 シュザンヌはムージスと離婚し、ユッテルと結婚します。ユトリロからしてみれば親友が義理の父親となったわけです。

 うーん。かなりユニークな境遇にある母と息子ですから、ちょっとやそっとのことでは動じないでしょうけれど、今回ばかりはユトリロは苦悩したことでしょう。

 幼児期から母親の愛に飢えていて、それが充たされることなく、今、親友に母親をとられてしまったのですから。そして自分は邪魔者扱いされているわけですから。

 それでも、芸術とは残酷です。

 ユトリロの芸術に磨きがかかるのはこのころからなのです。いわゆるあの美しい「白の時代」が始まるのです。

■母の愛情表現■

 母と息子の物語はこれでは終わりません。

 有名になり、たくさんのお金が入ってきても、ユトリロのアルコール中毒はまるで治りませんでした。精神病院の入退院を繰り返し、酔っ払って軽犯罪で警察につかまったり、シュザンヌと夫ユッテルはユトリロ対策を考えます。

 ふたりはユトリロをパリから離れた古城に「幽閉」し、土地の女性にユトリロを世話させることにしました。ユトリロ三十八歳。それでもユトリロは窓から抜け出して村の居酒屋で飲んで酔っ払っていたというのですから、まったく懲りないのですね。

 それでもこの古城で、ユトリロは母ヴァラドンのために、必死で絵を描いていました。ヴァラドンは浪費癖がエスカレートして、生活がだんだん派手になってゆき、どんなにお金があってもさらに欲しがるようになっていたのです。

 ときが経ち、ヴァラドンももう老齢、二十一も年下のユッテルはすでにヴァラドンから興味を失い若い女性を追いかけていました。ユトリロの収入がありますからお金には困りません。

 ヴァラドンは夫への嫉妬と復讐心から、あることを考えた、言われています。それは突飛な考えと言っていいでしょう。

 なんと、ユトリロの結婚を画策するのです。ユトリロが結婚すればその収入はユッテルには入らなくなるから。そんなことを考えた、と言われています。

 相手は以前からの知り合いで、ベルギーの銀行家の未亡人、リュシーという名でした。

 ふたりはヴァラドンの勧めで結婚します。ユトリロ五十二歳、リュシーは十二歳年上の六十四歳でした。ちなみにヴァラドンは七十歳。

 周囲は、あっけにとられました。喜劇のようだ、と馬鹿にしました。

 けれど、ユトリロ本人は、以前から金髪でふっくらしていているリュシーがお気に入りだったようで、「神様のおかげで結婚できる」と喜んでいたようです。

 リュシーは、虚栄心ゆえの結婚だと、これまた悪口言われていますけれど、結果的にはユトリロの日常の世話から展覧会の仕事、すべてにエネルギッシュに動き、ユトリロが亡くなるまで、彼から離れませんでした。リュシーによってユトリロはようやく「母親」に愛される感覚を抱けたのかもしれません。そう思いたいです。

 この結婚を機に、ユトリロはモンマルトルを離れます。パリ郊外の高級住宅地ル・ヴェジネに住むのです。

 この結婚話、先にお話したように、ヴァラドンは夫ユッテルへの復讐のために画策したのだ、と言われています。それはあったかもしれません、いいえ、ヴァラドンの性格を考えればあったでしょう。けれどもそれ以上に、ユトリロのことを心配する想いのほうが大きかったと私は考えるのです。

 健康を害し始めていたヴァラドンは、自分の死後のことを考えたことでしょう。そして、自分の代わりになる女性を息子に用意してからでないと死ねない想いだったことでしょう。だから、年齢がとても上のリュシー、エネルギッシュなリュシーを妻にさせたのだと思うのです。

 晩年は、夫と二人でユトリロが稼ぐ大金で遊びまくったとか、息子を利用しまくったとか、悪口言われることの多いヴァラドンですが、そして実際、そういうこともあったでしょうが、けれど、ユトリロに絵を教えて、画家ユトリロを誕生させたのは、ヴァラドンです。

 そして息子は、ずっとずっと、母ヴァラドンを慕い続けていた。このことはやはりヴァラドンの愛情なしには考えられません。なによりヴァラドンが描いた息子の肖像画が、それを証明しているように思います。

 この強いまなざしを見てください。そのまなざしに宿る画家の自信を見てください。

 問題行動多い息子だけれど、アルコールから離れられない息子だけれど、ヴァラドンは画家としての息子を、とても誇りに思っていたのです。そしてそういう想いは必ずや、相手に伝わるものです。

 ユトリロは、母ヴァラドンから、画家として認められるということで、それは特殊な方法ですけれどたしかに、愛情を受け取っていたのだと私は思います。

 ユトリロの結婚から三年後の一九三八年、シュザンヌ・ヴァラドンは病死しました。七十二歳でした。あまりの悲しみでユトリロは母親の葬儀に出席できませんでした。

 そのかわりに、詩を書きました。

「シュザンヌ・ヴァラドンと呼ぶわが母は 気高く 美しく 善良な女性……」

 母の死から十七年後、息子ユトリロも病死しました。七十一歳でした。

 彼が最後に描いていたのは、久しく訪れていないモンマルトルの風景でした。

 妻リュシーとも仲が悪くなっていた晩年のユトリロの孤独を癒すものは、アトリエにつくられた祭壇でした。彼は信仰にすくいを求めていたのです。

 祭壇には三つのものが飾られていました。

 聖母マリアの小像、母からもらったジャンヌ・ダルクの小像、そして母シュザンヌ・ヴァラドンの肖像でした。

(『美男子美術館』より)

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