ブログ「言葉美術館」

■独り居の日記と路子倶楽部会員の存在とBOOK ON BOOK

 

 すごく書けてる、いいかんじ、なんてここに記したのは4月3日、なのにもうそんなのどこかにいっちゃった。早く戻ってきてくれないかな、あの感覚。

 今朝は目覚めたときからわかっていた。今日は、私は無価値、そんな気分に襲われる予定の1日なんだって。

 わかってるならなんとかすれば、って思う人が多いかもしれないけど、だめなんだってば。

 それでも家事をしてなんとなく自分を整えてパソコンに向かう。続きの原稿を書き始める。自尊心、ってテーマにぶちあたる。ああ、今日はこのテーマはきついなあ。

 それでも自虐趣味があっという間に勝利して、自尊心を掘ってゆく。

 そういえば『わたしは、ダニエル・ブレイク』って映画で、「これは自尊心の問題だ」ってセリフがあったな。たしかブログに書いたなとブログを検索。簡単にしか書いていなくて後悔。ネット検索したらちょうどアマゾンプライムで配信していたから、どうせ原稿のらないし、資料集めということにして(自分への言い訳)観ちゃおう、と観賞。

 やはりいい映画だなあ。でもいまの私には向いていなかったなあ。将来への不安にまみれてしまったなあ。

 どよーんと落ちる。

 なにか生産性のあることをしよう。そう思ったときインターフォンが。スーパーマーケットの宅配を頼んだのだった。野菜スープのストックを作ろうと思って。根菜は重いから昨日頼んでおいたのだった。ついでにビールとワインも。

 タンゴは聴きたくない気分でミスターチルドレンをかけたらせつなくなってきて、だめだ、これじゃない、と中島みゆきをかけた。そうそう、いまはこの気分。

 夜になって、メイ・サートンの『独り居の日記』が久しぶりに読みたくなった。

 このところ読書欲が増していて、カミュの作品や伝記を読み、その流れからシモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』にトライし始めたから、ほんとならその続きを読むところなんだけど、なんだろう、きびしく新しいものよりも、よく知るひとにふれたいきもち。

 それで、ページを開いたとたん、ひきこまれる。4行目から、もう、だめ。

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いま起こっていることやすでに起こったことの意味を探り、発見する、ひとりだけの時間をもたぬかぎり、友達だけではなく、情熱かけて愛している恋人さえも、ほんとうの生活ではない。

なんの邪魔も入らず、いたわりあうことも、逆上することもない人生など、無味乾燥だろう。

それでも私は、ここにただひとりになり、“家と私との古くからの会話”をまた始める時ようやく、生を深々と味わうことができる。

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もう長いこと、私にとって、人との出会いはことごとくぶつかりあいだった。

私は感じすぎ、意識しすぎ、もっとも単純な会話のあとでさえ、その反響でくたくたになった。

しかし深いぶつかりあいは実はいつも、生まれ変われていない私、人を苦しめつつみずからも苦しんでいる私自身とのあいだに起こっていたのだ。

私は今まで一つの目的のために、つまり自分の考えていることを知り、自分がどこかにいるかを見出すために、すべての詩も小説も書いてきた。けれど私は自分の納得する人間になることができない。

だから今私は不完全な機械のような気がするのだ。

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『独り居の日記』は58歳のサートンの1年間の日記だから、年齢もあんまり変わらないじゃない、と思うと以前読んだときよりも、さらに近く感じる。

 表現はぜんぜんかなわないけれど、思っていることはほとんど同じだ。

 私もほんとうにそんな状態。

 

 読み始めてすぐに、ブログ書こう、と思えたのは路子倶楽部の会員のみなさんの顔が浮かんだから。なるべく記事をあげます、って約束したから。

 そう、路子倶楽部のみなさんの存在がなかったら、以前のように平気でひと月くらい更新なし、とかしていただろう。義務感というとも違う。自らが作った、より多く書きより多く届けるためのルールくらいは守りたい。つきあいで入ってくださっている方のほうが多いことも承知。甘えている。

 そして。

 誰からも必要とされていないと感じる種類の孤独のなかにいるときは、その存在がいつも以上に支えとなる。

 写真は『独り居の日記』の上にいる、かなり前から欲しかった「BOOK ON BOOK」。アクリルのね、本をおさえるためのもの。あれば便利、でもなくてもなんとかなるものとして、買わないでいたのだけれど、娘からの「それはいつも買っているあれこれより必需品なのでは」というひとことで購入。やっぱり、かなり必需品だった。

 すこし、書けそう。

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